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御朱印迷宮

関東を中心とした寺社の御朱印記録です。参拝・収集目的に少しでも役立てば幸いです。

放光寺の御朱印(山梨・甲州市)〜おトナリさんの恵林寺に劣らぬ歴史と見どころ

高橋山 放光寺御朱印

ほうこうじ真言宗豊山派山梨県甲州市塩山藤木2438)

左下の篆書の印はまったく読めません。

あてずっぽうでも「談林●●放光禅寺之印」?? 無理です。禅寺でもないし!

あきらめましょう。

2022年現在では、このほか愛染明王や大黒天の3種類の御朱印がいただけるようです。

 

▼「放光寺」は、あの有名な「恵林寺」のすぐ北、裏方面にあります。

▼車で寺の駐車場を目指していると水車に出会いました。

西藤木の水車」と呼ばれるもので江戸時代に建てられたものが現在まで引き継がれ、昭和40年代まで実際に地域の産業に使用されていたそうです。

 

▼水車から先に進むと「仁王門」。

写真はありませんが、内部には国の重文に指定されている仁王像が2体立っています。

何しろ訪問時の2013年は、まだ御朱印をいただくのが精一杯。

現在ほど社寺の建物や像などの造立物や、寺社の歴史などにも大きく興味を持てず、理解もできませんでした。

ただ、ひたすら御朱印でした。

勿体ないやら、バチ当たりやらで、まさにスタンプラリーの状態だったことを今ではハジています。

 

放光寺は武田氏の祖で新羅三郎義光の子孫という甲斐源氏安田義定源平合戦で功績をたて、一ノ谷の戦いの戦勝を記念して1184年に創建。

後に武田信玄も放光寺を祈願所にしています。

 

仁王門から反対側を見ると別な門が建っていたのでそちらへ戻ってみます。

▼「山門」でした。

仁王門も山門も建てられた時代は分かりませんが、水車とともにこの寺を訪れた時に目にできる風景は、近くの「恵林寺」に劣らない良い姿を見せてくれます。

 

▼その歴史も鎌倉時代後期創建の「恵林寺」より古く、1184年と紹介されています。

重要な文化財も多く所持しているものの、戦国時代には「恵林寺」同様、織田・徳川軍による戦火で堂宇の全ては焼失しています。

したがって多くの建物はその後の再建によるものでしょう。

 

地理的には500mも離れていない「放光寺」と「恵林寺」ですが、知名度は5千光年離れています。

観光バスを動かし、停車させる材料はあるはずです。

その受け入れ態勢を整えられれば、恵林寺に太刀打ち、いや同等に参拝者が訪れ、知名度も上がる寺になれる可能性はでしょう。

多くの寺もSALES内容に大きく左右され、檀家に頼らずビジネスとして成り立つ場合も多くあり「放光寺」も、その一寺かもしれません。

 

もっとも敢えて、一般人が多く訪れるような路線を避ける寺社もなくはありません。

今時でいうと御朱印を授与しない寺社もごく稀に見られます。

それぞれの理由、主張があるでしょうから一概に知名度が上がれば全てヨシとは言えないでしょう。

 

▼江戸時代に再建された「本堂」の扉は開かれていました。

▼この扁額の文字は「放光寺」と知っていなければ、読めるものではありません。

▼観音像でしょうか? ググッと前に出て縁近くに立っていらっしゃいます。

▼本尊はこちらの「大日如来」ですが、現在は収蔵庫に納められているそうです。

                                     (▼写真は「放光寺」

▼「愛染堂」に祀られているのは、弓と矢をつがえた「天弓愛染明王」。

▼お堂の奥まった暗い箇所にいらっしゃる重文の明王は、安いカメラと下手な撮り手にには明瞭な姿を見せてくれませんが、カッコイイと思わず呟く姿でした。

▼放光寺創建者の甲斐源氏一族 安田義定が祀られている「毘沙門堂」の奥は庭になっているのでしょう。

訪れたのは11月でしたが、額縁の中の松は青々と輝いていました。

 

甲斐ではゆっくり丁寧な参拝ができていない寺社ばかり。

再訪を願いながら10年近くが経過してしまいました。

そして未だ具体的な訪問計画はなし。

それでも寺社は逃げないので、ゆっくり構えることにしましょう。

 

▼おトナリ「恵林寺」の記事。

wave2017.hatenablog.com

 

鶴峰八幡宮の御朱印(千葉・富津市)〜海に向かって建つ「関東三鶴」の一社???

 鶴峰八幡宮御朱印

つるみね はちまんぐう主祭神誉田別命(千葉県富津市八幡143)

御朱印は丁寧に対応いただき、直書きというか、朱印帳にいただきましたものの日付以外は全てスタンプでした。

 

最初に思いっきり「参拝記念」と一番大きな文字が並び、ほかでは「奉拝」が多い中、あくまで「参拝記念」ですよ!と釘を刺されたような感じがします。

 

総州 天羽郡 佐貫城 西鎮座」天羽郡は「あまはぐん」と読み、かつてあった郡。

佐貫城は戦国時代から明治維新まであった城で現在は城跡だけが残っています。

 

神紋の「鶴の丸紋」の下は、祭神「玉依姫命 誉田別尊 神功皇后」の朱印が押されています。

 

御朱印は神社入口になる「ニノ鳥居」左脇の社務所でいただけます。

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▼当社へは内房線佐貫町駅」から1.3kmほどの距離があります。

▼「佐貫町駅」は無人駅です。       (▼写真は「wiki 佐貫町駅」

特急は止まらず、日中は1時間に上下線で1本ずつ。

1日の駅利用客も300人もいないそうです。房総半島ではこんな駅が少なくありません。

 

▼最初に神社から200mほど東に建つ「一の鳥居」に向かいます。神社側から海側を見た位置です。

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▼鳥居の向こうは東京湾浦賀水道が広がっています。

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▼鳥居の先の坂を下ります。

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▼海の前方に見えるのは三浦半島の「観音埼灯台」でしょう。

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海に向かって鳥居が建つ神社は多くあります。神々は海からやってきたのでしょうか?

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海から渡来してきた人、物を神とした場合もあるでしょう。

海に豊漁を願ったり、また海の水、川の水で禊をする意味もあるでしょう。

「鶴峰八幡宮」の場合は、718年、荒れる海を鎮めるために漁師たちによって神社が創建されたと伝わります。

その神は大祭では神輿に担がれ「海中渡御」されます。

 

▼先に鳥居が建つ坂道が神の道にふさわしく感じます。

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▼「一の鳥居」から真っ直ぐに進むと「ニノ鳥居」が建つ神社前です。

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▼その右脇に鮮やかな朱色が目を引く「厳島神社」は境外社になるのでしょう。f:id:wave0131:20220415165203j:plain

鳥居にかかる扁額は「弁天宮」とされています。

水難除け、商売繁盛、豊漁などのご利益があるそうです。

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また「延命の井戸」があり、江戸時代に起こった天明の水飢饉でも枯れることなく近隣の人々を救ったと伝わります。

 

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いただいた御朱印と銅製の鳥居にかかる扁額は「鶴峰八幡宮」の表記ですが、

▼社号標は「鶴峯八幡神社」になっていました。

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八幡宮の神紋といえば「三つ巴」が多いのですが、ここでは鎌倉の「鶴岡八幡宮」同様に「鶴丸」です。

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そして「」の文字を持つ神社と言えば「関東三鶴」「三鶴八幡」という括りが取り沙汰されることがあります。

 

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その「三鶴」のくくりには諸説あって、鎌倉の「鶴岡八幡宮」と、館山の「鶴谷八幡宮」は誰もが認めるもので、

残る一社を市原市の「鶴峯八幡宮」とする説と、ここ富津市の「鶴峰八幡宮」とする説に分かれています。

 

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とは言え、当の「関東三鶴」のそれぞれの神社は、公式には言及してないようです。

いつ、だれが、どのように「三鶴」を決めたのか分かりませんが、やはりその括りにあまり意味もなく、どこが「三鶴」だろうと大きな問題ではないかもしれません。

 

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しかし、鎌倉の「鶴岡八幡宮」と館山の「鶴谷八幡宮」の二社がともに海に向かって鳥居が建ち、海から真っ直ぐ進んだ参道の先に社殿がある共通点と、神社の大きさなどを見ると、

少し内陸部に鎮座する市原市より、

海に向かう、ここ富津市の「鶴峰八幡宮」の方が有利な条件を多く備えているように思われます。

 

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関東三鶴」に似たような括りで「相模三鶴八幡」なんていうものもあり、

こちらも四社ほどの候補があり、鎌倉の「鶴岡八幡宮」は「関東三鶴」と掛け持ちをしていますので、話はかなりややこしくなります。

 

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その「三鶴」とは関係ないでしょうが、茨城の古河市に同じ名称の「鶴峯八幡宮」が鎮座します。

そちらは鎌倉の「鶴岡八幡宮」を勧請しています。

そして全くチンプンカンプンなことに、

ここ富津市の「鶴峰八幡宮」と、古河市の「鶴峯八幡宮」が同じURLなのです。

▼当社の由緒書きに記されている「www.tsurumine.jp」にアクセスすると古河市の神社のページに導かれます。

二社の「鶴」に何か関係があるのかもしれません!?

「鶴」の話を探っていくと泥沼から抜け出せなくなります。

 

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▼話が「三鶴」という横道に逸れてしまったので参道に戻ります。

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▼「手水舎」にはコロナ禍以前はセルフの「自己祓幣」が置かれていたそうですが、今は除菌アルコールに変わっています。

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▼掃き清められた境内と朱塗りの拝殿は、誇り高く静かに孤高のような佇まいです。

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▼社殿は明治期に修造、昭和に本殿の改修と同時に幣殿、拝殿が新築されたそうです。f:id:wave0131:20220415165251j:plain

▼こちらは異字体の「峯」の文字が用いられていました。

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誉田別命」にご挨拶しましょう。家内安全、航海・漁業守護、安産守護、身体健勝などの御神徳があるそうです。

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▼緑の透塀も美しい社殿の横顔です。

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境内社を見て回ろうとしたら、平成に新設された「神輿蔵」でした。

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▼こちらは「天照皇大神宮」。

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境内社の中でも大きい「粟島神社」。

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明神鳥居は、今は銅製の大鳥居に変わった社務所前にあったものを平成に移築されたそうです。以前はこの小さめな鳥居が神社の玄関だったのでしょう。

粟島神社なので「少彦名命」が祀られていることと思います。

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▼神明系の銅製鳥居が建つのは「浅間神社」。

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▼奥は富士塚を模して、頂上に祠が見えます。

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▲▼彫られた文字はどちらも草書で読みづらいのですが「富士浅間神社」でしょう。

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▼「海上安全」「航海安全」を願って大きな錨が奉納されています。

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やはり海とつながりの深い神社です。

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社務所近くに2羽の鶴。包帯が巻かれているかと思いましたが、おみくじでした。

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午後3時近い境内で人の姿は皆無。

周辺でも社務所宮司さん以外、誰とも出会いませんでした。

とても素晴らしい雰囲気の「鶴峰八幡宮」でしたが、多くの参拝者を迎えるのに地理的な条件が阻んでいるかもしれません。

 

 

▼関連神社の記事です。

 

 

 

仏母寺の御朱印(千葉・富津市)〜仏母の隣にマザー牧場、仏と動物たちの関係と原子心母

仏母寺御朱印

ぶつもじ臨済宗妙心寺派(千葉県富津市田倉942-13)

書置きで「東国花の寺」としての御朱印でした。

右下の印は「摩耶観音」。

中央の大きな印は、他でよく見るのは「佛法僧寶」ですが、ここでは「佛寶僧印」のようです。

左下の「大悲山 佛母寺」の書体は象形文字のようで味があります。

どの印も大悲山 仏母寺、本尊 摩耶観音と知ってからでないとなかなか読めません。

 

▼ステキなポストカードもいただきました。

 

御朱印はこちらでいただけます。額の文字は「喫茶去」と読むのでしょうか?

 

▼「仏母寺」は「マザー牧場」の広大な敷地内の端というような位置にあります。

▼「鹿野山」を車で登ってきました。しかし千葉房総の山のほとんどは低山です。

鹿野山の標高は350mほどで、ここでは300mもないでしょう。

それでも3月下旬、桜並木と思われる参道の木々はまだ開花前のようです。

 

▼駐車場の先に建つのは永代供養の「妙峰殿」。

反対側の左手には墓地が広がっています。

桜の開花時期になればサクラのトンネルになりそうですが、桜の木ではないかもしれません。

どちらにしてもとっても気持ちの良い参道です。

▼参道途中、仏母寺開山の「山田無文老大師之塔」は供養塔なのでしょう。

▼「不生不滅」は般若心経にも出てくる仏語。生もなければ、滅もない?

▼正面の入口なので一応「山門」になるのでしょう。

▼門をくぐると真っ直ぐに続く参道とは別に、左に地蔵たちが並ぶ小径がありました。

可愛らしい地蔵や、尼さんらしき像など柔和な表情で参拝者を迎えてくれます。

仏母寺は1977年創建の比較的新しい寺です。

開基は産経新聞社、東京タワー、マザー牧場などでちょっと企業色の濃い寺院です。

▼そんな現代に創建された寺院のせいでしょうか、一般の古い寺院の姿とは少し建物などの景観が違います。

▼寺院内部に足を踏み入れると右に藤棚の庭が広がり、

▼その前が、2度出しになる写真ですが御朱印をお願いする「喫茶去」。

▼通路には「撫でなで地蔵」も立ちます。

▼「寂菴」ですが、瀬戸内寂聴とは関係ないでしょうね!

▼石段を進んで少し高い位置にある「本堂」は仏舎利塔のような形状。

▼狛獅子も現代的で独特な造りと表情をしています。

▼本尊の「摩耶観世音菩薩」と一緒に並ぶ像は釈迦でしょうか?

摩耶」は釈迦の実母です。案内板には「摩耶夫人まやぶにん)」と記されていました。

仏母寺の「仏母」とは、この「摩耶夫人」を表す言葉だそうです。

仏の母、釈迦の母=摩耶夫人という理解で良いのでしょう。

仏母には他に「仏の教え」というような意味もあるそうです。

 

▼手前は「ペット・家畜供養塔」。

開基に名を連ねるマザー牧場の動物たちと関連があるかもしれません。

レジャー施設としての牧場ですので様々な動物がたくさん飼われています。

その動物たちあってのマザー牧場ですので、仏母、釈迦のマザーに見守られ、寺の一画で供養されるのももっともな事かもしれません。

▼「慈母の鐘」の鐘楼も近代的な建物となっています。

▼子安地蔵? 慈母地蔵? 水子地蔵でしょうね?

夥しい数の奉納地蔵は「水子地蔵」です。

▼境内の東側にあるもう一つの出入口から外へ出ます。

▼壁にかけられた大きなレリーフは釈迦にまつわる菩提樹の木。

マザー牧場側からも寺に入れます。

▼反対に寺側からマザー牧場へは入場券が必要なようです。でもこの日は無人

▼先に進めばこのままマザー牧場内に入れてしまうようです。

▼左手先に見えるのは「水分神社」。ちょっと遠いのでスルーでした。

▼ちょっとマザー牧場に寄り道してみましょう。

仏母寺から進んで入場券も買わずに入った訳ではありません。別の日、秋の牧場です。

▼ワンコも他の動物たちの匂いに興奮気味に足を早めます。

サルビアでしょうね?

▼イノシシも芸をしないとご褒美をもらえません。

▼この動物たちは何て優しい目をしているのでしょう! 人間とは比べものになりません。大事に育てられなければ優しい目にもならないでしょう。

を見て、仏母寺の「」との組み合わせで「原子心母」を連想させられました。

プログッレシブも時が流れれば、過去の進歩、過去の革新です。

建物のあり方が革新的とも思えた仏母寺も、時が流れれば、普通の古いお寺になるのでしょう。

 

▼ほぼ、お隣り「神野寺」の記事。

wave2017.hatenablog.com

雑司が谷 鬼子母神堂の御朱印(東京・豊島区)〜池袋の喧騒から離れて 雑司が谷ケヤキ並木参道

[2017.05.19-rewrite 2022.04.20]

雑司が谷 鬼子母神御朱印

「ぞうしがや きしもじん日蓮宗(東京都豊島区雑司が谷3-15-20)通称である「雑司が谷 鬼子母神」は当地から北にある「法明寺」の境外お堂という立ち位置でしょう。

鬼子母尊神」は「」の文字を加えず「鬼子母神」と書かれる場合もあります。

鬼子母神」は関東では法明寺のほかに、「恐れ入谷の鬼子母神」で知られる「真源寺」や千葉市川市の「中山法華経寺」などが有名です。

 

▼鬼のような悪行を働いていた女性を釈迦が諭し改心させ、仏法の守護神、子供と安産の守り神「鬼子母神」になったので、の文字に「ツノ」は外されています。

「ツノ」が取れた元鬼といったような意味なのでしょう。

また、読みは「きしじん」ではなく「きしじん」が正解のようです。

 

法明寺鬼子母尊神」の御朱印(2021年)。

法明寺鬼子母尊神」の御朱印(2012年)。

法明寺 鬼子母神の御首題(2016年)。「法明寺」は日蓮宗ですので、鬼子母神堂では御首題もいただけます。

 

▼2021年の参拝時は書置きのみでした。

御朱印の右上にも「みみずく」のスタンプが押されていますが、

雑司が谷名物? 東京の郷土玩具である「すすきみみずく」をデザインした袋に入れられ渡されました。

 

▼「法明寺」は「雑司が谷七福神」も担っていますので、そちらの御朱印も用意されています。

 

鬼子母神堂へは池袋駅から徒歩圏内ですが、都電荒川線鬼子母神前」、副都心線雑司が谷駅」がベストでしょう。

都電荒川線鬼子母神前」の読みは「きしもじん」ではなく「きじぼじんまえ」としています。

 

雑司が谷は谷中などと同様、山手線内でももっとも東京らしくない地域の一つと言えるでしょう。

言い方が間違ったかもしれません。

少し前の時代の東京らしさが残っている地域です。

 

鬼子母神の表参道になる「鬼子母神大門ケヤキ並木」は、その代表的な光景です。

なぜ「大門」という文字が使用されているのか分かりません。

かつては鬼子母神への門があったのでしょうか?

ここには手塚おさむが「トキワ荘」から移り住んだという伝説のアパート「並木ハウス」も残っています。

参道は東京らしくない並木道を形成していましたが、ここ10年くらいの間に左右の家並みの木造建築がほとんどモダンな建物に変わっています。

東京らしくない地域は東京らしく変化していきます。

▼並木の参道には昭和モダンの建物「砂金家長屋」に「雑司が谷案内所」が設けられています。

▼参道のケヤキは青葉モリモリの頃、黄葉の時季も良いのですが、葉が落ちた冬枯れの季節も悪くはありません。

▼江戸時代、広重も往時の繁栄ぶりを「江戸高名会亭尽 雑司ヶ谷の図 茗荷屋」として

ケヤキの大木と有名な料理屋を描いています。(▼写真は「google Art & Culture」

浮世絵には女性が多く描かれていて、江戸時代には鬼子母神も物見遊山的な対象として賑わっていたのでしょう。

 

現在は伐採されたため往時からのケヤキの老大木は数本しか残されていなく、

他は地域の人々の努力によって旧景が復元され、維持されているようです。

▼「鬼子母神前駅」「雑司が谷駅」から続く、気持ちの良いケヤキ並木の表参道を進んで突き当たりを左に足を向ければ、鬼子母神堂が見えてきます。

かつては鬼子母神堂前に鳥居があったそうですので、この辺りかもしれません。

池袋ー新宿ー渋谷を繋ぐ、超便利な地下鉄「副都心線」の駅ができたせいもあるでしょうか、若者たちの姿が多く見られます。

▼2012年はもう少し穏やかな境内でした。

▼境内入口に立つ仁王像たちも、若者たちの訪問が多くなったことを喜んでいるに違いないでしょう。

▼それにしても、週末は人を避けてお堂を撮影するのは無理なようです。

鬼子母神堂の起こりは1561年、当地で鬼子母神の木像が掘り出された時に始まります。

その後、村人がお堂を建て、鬼子母神信仰が隆盛するとともに江戸時代初期には大名の寄進などによりさらに発展。お堂も改修、解体復元を経て現在の姿になっています。

▼寺に神が祀られ、かつては鳥居があって、現在は狛犬も破顔している寺の迷宮です。

▼昔は当然木製だった天水桶は金属製になって、ほとんど鉄釜状態。

お堂は江戸時代に建立されたものが引き継がれ、国の重文に指定されています。

▼この先は撮禁です。

祀られている鬼子母神尊は、羽衣姿で吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しい姿をしているそうです。

▼まるで蝶が群がるように絵馬が飛び交っています。

▼境内に入るとすぐ左手に広がっているのは「武芳稲荷たけよしいなり)」。

詳細は不明ながら、鬼子母神より古くからあり「稲荷の森」と呼ばれていたそうです。

雑司が谷七福神が祀られている「大黒堂」は比較的新しく建てられたお堂。

▼子供たちに人気なのは江戸時代から続く駄菓子屋「上川口屋」。

看板には創業1781年の文字もあり、230年以上も続けられ現存している店は日本で一番古い駄菓子屋と言えるでしょう。

▼樹齢700年と言われる大銀杏。大きさと高さに圧倒されます。

 

副都心線ができ「雑司が谷駅」が開業して便利になった地域。

しかし便利になると地域の様相も確実に変化していきます。

古い建物が建て替えられ、マンションもできる、カフェもできる、住民も変化し、人通りも増える。

もはや猫もオチオチ道端で昼寝していられなくなります。

その変化にヨソ者がツベコベ言えません。

みんな我が街を便利に、賑やかに活性化して、ガヤガヤとした街にしたい雑司ガヤ!かもしれません。

 

ケヤキ並木の参道から鬼子母神堂までは、昔の景観を残しあまり変化して欲しくない気持ちは、やはりよそ者の勝手な願いでしょう。

 

瀬田玉川神社の御朱印(東京・世田谷区)〜瘡守稲荷神社の御朱印も

瀬田玉川神社瘡守稲荷神社御朱印

せた たまがわ じんじゃ主祭神日本武尊(東京都世田谷区瀬田4-11-31)

かさもり いなり じんじゃ主祭神倉稲魂命(東京都世田谷区瀬田4-32-19)

この時期ありがたいことに両社とも朱印帳に直書きいただきました。

 

瀬田玉川神社御朱印

右上のスタンプは瓢箪に「招福」ですが、重ねられている墨書きは読めません。

当社のHPに「武蔵国瀬田郷鎮座」とありますので、そのうちのどれかの文字で、最後の二文字は「鎮座」でしょう。

中央神社名の墨書きは遊び心に溢れたステキなデザイン文字に感じます。

 

瘡守稲荷神社御朱印

瘡守稲荷神社は由緒書きでは「飛地境内末社」と案内されています。

こちらの御朱印の墨書き部分はスタンプが使用されていました。

 

御朱印社務所受付で丁寧に対応いただけました。

御朱印の案内と瘡守稲荷神社への道案内が分かりやすく簡潔に表示されています。

 

▼当社へは東急線二子玉川駅」から北へ1kmほどの高台に鎮座します。

高島屋の脇を通り10分ほど歩くと坂道になり、その坂途中に神社の入口が見えます。

坂下には「玉川大師」があり、そちらでも御朱印をいただけます。

 

当地は江戸時代から風光明媚が話題となり人々が多く訪れ、ちょっとした歓楽地も形成して賑わっていたそうです。

▼そんな街を見下ろせたに違いない高台に神社は鎮座し、急な石段が伸びています。

▼今では当たり前のごとく手すりが設けられていますが、昔の参拝者は石段でさえ今ほど整備され登りやすいものではなかったのでしょう。

▼石段を登りきると「一ノ鳥居」の先にさらに石段が見えます。

▼二つ目の石段を登り振り返ると二子玉川の街並みへの視界はあまり開けていません。

▼「ニノ鳥居」の先にも数段の石段が境内に続きます。

この高い位置に鎮座することから昔には「御嶽神社(みたけじんじゃ)」とか「おみたけさん」とも呼ばれていたそうです。

▼何ともスゴイ形相の狛犬は鮮やかに彩色された珠を抱えていてミスマッチ。

▼小獅子も真剣な表情。

▼「手水舎」はフェンスがあり近寄れませんでした。気持ちだけ「洗心」!

▼拝殿前には古い焼かれたような狛犬

▼コアラを連想させられるカワイイ表情をしています。

▼この狛犬はこの写真にも裕次郎とともに写っています。(▼写真は「瀬田玉川神社」

ロケの合間にスケッチをする1965年頃の石原裕次郎だそうです。

社殿は1968年に建て替えられていますので、裕次郎の写真バックは古い社殿でしょう。

伝説の昭和の銀幕ヒーローは、どんな時にも絵になるタレントだったようです。

コンクリート造りの味気なさを感じさせない気品と風格が備わっています。

神社では見慣れたエメラルドグリーンと朱色の組み合わせですが、いつも新鮮さを感じさせられます。

▼社殿と社務所を結ぶ廊下の手前に取ってつけたような境内社の鳥居が建ちます。

▼頭をぶつけないように屈んで回廊をくぐれば「稲荷社」の鳥居が連なっています。

▼賽銭箱の新しさがヤケに目立つ稲荷神社です。

▼巻物を咥えた神狐はヤンチャ坊主的なステキな表情。

▼稲荷社の脇にはジオラマの模型のような茅葺の社がケースに収められ、陶器製の狛犬らしきものも相当ユニークです。民間企業の奉納のようです。

▼社殿前の境内に戻りました。2022年、干支の大絵馬が設置されています。

▼よく見ると子虎のトボけた表情が親虎の表情とは対照的で作者に拍手です。

▼社殿から一段下がった境内右手に「神楽殿」や「神輿庫」が並びます。

▼その一段下がった境内からもう一つの鳥居が立っていました。

▼社殿と同時に昭和に新築された社務所は大きく立派です。

▼その社務所前は車が多く駐車できそうなスペースがありましたが、神社回りを一周したものの進入路は見つかりませんでした。

兄妹らしき二人が広い境内を使ってサッカーに興じています。

礼儀正しくも遠慮ない遊び方は神社の子供か、関連する子たちのようです。

 

玉川神社境内を出て北側にすすみ坂道の上に出て、

御朱印をいただいた境外社の「瘡守稲荷神社」へ向かいます。

▼5分も歩かないうちに、信号のある交差点の左手に瘡守稲荷の社号標が現れます。

瘡守稲荷神社」の「」という文字を「かさ」と正確に読める人は少ないでしょう。全く身近にない言葉だからです。

医療が近代的なものになる前の「瘡」は忌み嫌われ、不治の病いとしてみられた皮膚病、性病だったのでしょう。

 

性病の蔓延はこの地域の風光明媚さに人が集まり、幾つもある寺社の周りに遊郭が出来たことが要因だったのでしょう。

 

近代医学の恩恵が一般の国民に行き渡る前までは、もっぱら神頼み、仏頼みしかなかったのですから、この手の神社が現在も数多く見られるのは理解できるところです。

 

当時は防ぎ方法も、対処法も確立できていない、まさに常にパンデミックという脅威の中に人々は生きている中で神に祈ったのです。

 

▼この参道を「お百度参り」した人はどれほどいた事でしょう?

▼そんな時間を狐像たちも経験してきた「とき」だったかもしれません。

▼「大正十年二月初午」の文字が彫られています。この地域が現在とは形の違う賑わいを見せていた最盛期のころだったようです。

病気の種類は異なっても「瘡」が恐れられていたように、21世紀の現代医学が発展した中でもガンを恐れ、新しい感染症に怯える人間に大きな違いはないのでしょう。

世界中の感染症が治ることを祈って神社を出ます。

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