瀬田玉川神社・瘡守稲荷神社の御朱印
「せた たまがわ じんじゃ」主祭神:日本武尊(東京都世田谷区瀬田4-11-31)
「かさもり いなり じんじゃ」主祭神:倉稲魂命(東京都世田谷区瀬田4-32-19)
この時期ありがたいことに両社とも朱印帳に直書きいただきました。
▼瀬田玉川神社の御朱印。
右上のスタンプは瓢箪に「招福」ですが、重ねられている墨書きは読めません。
当社のHPに「武蔵国瀬田郷鎮座」とありますので、そのうちのどれかの文字で、最後の二文字は「鎮座」でしょう。
中央神社名の墨書きは遊び心に溢れたステキなデザイン文字に感じます。
▼瘡守稲荷神社の御朱印。
瘡守稲荷神社は由緒書きでは「飛地境内末社」と案内されています。
こちらの御朱印の墨書き部分はスタンプが使用されていました。
▼御朱印の案内と瘡守稲荷神社への道案内が分かりやすく簡潔に表示されています。
▼当社へは東急線「二子玉川駅」から北へ1kmほどの高台に鎮座します。
▼高島屋の脇を通り10分ほど歩くと坂道になり、その坂途中に神社の入口が見えます。
坂下には「玉川大師」があり、そちらでも御朱印をいただけます。
当地は江戸時代から風光明媚が話題となり人々が多く訪れ、ちょっとした歓楽地も形成して賑わっていたそうです。
▼そんな街を見下ろせたに違いない高台に神社は鎮座し、急な石段が伸びています。
▼今では当たり前のごとく手すりが設けられていますが、昔の参拝者は石段でさえ今ほど整備され登りやすいものではなかったのでしょう。
▼石段を登りきると「一ノ鳥居」の先にさらに石段が見えます。
▼二つ目の石段を登り振り返ると二子玉川の街並みへの視界はあまり開けていません。
▼「ニノ鳥居」の先にも数段の石段が境内に続きます。
この高い位置に鎮座することから昔には「御嶽神社(みたけじんじゃ)」とか「おみたけさん」とも呼ばれていたそうです。
▼何ともスゴイ形相の狛犬は鮮やかに彩色された珠を抱えていてミスマッチ。
▼小獅子も真剣な表情。
▼「手水舎」はフェンスがあり近寄れませんでした。気持ちだけ「洗心」!
▼拝殿前には古い焼かれたような狛犬。
▼コアラを連想させられるカワイイ表情をしています。
▼この狛犬はこの写真にも裕次郎とともに写っています。(▼写真は「瀬田玉川神社」)
ロケの合間にスケッチをする1965年頃の石原裕次郎だそうです。
社殿は1968年に建て替えられていますので、裕次郎の写真バックは古い社殿でしょう。
伝説の昭和の銀幕ヒーローは、どんな時にも絵になるタレントだったようです。
コンクリート造りの味気なさを感じさせない気品と風格が備わっています。
神社では見慣れたエメラルドグリーンと朱色の組み合わせですが、いつも新鮮さを感じさせられます。
▼社殿と社務所を結ぶ廊下の手前に取ってつけたような境内社の鳥居が建ちます。
▼頭をぶつけないように屈んで回廊をくぐれば「稲荷社」の鳥居が連なっています。
▼賽銭箱の新しさがヤケに目立つ稲荷神社です。
▼巻物を咥えた神狐はヤンチャ坊主的なステキな表情。
▼稲荷社の脇にはジオラマの模型のような茅葺の社がケースに収められ、陶器製の狛犬らしきものも相当ユニークです。民間企業の奉納のようです。
▼社殿前の境内に戻りました。2022年、干支の大絵馬が設置されています。
▼よく見ると子虎のトボけた表情が親虎の表情とは対照的で作者に拍手です。
▼社殿から一段下がった境内右手に「神楽殿」や「神輿庫」が並びます。
▼その一段下がった境内からもう一つの鳥居が立っていました。
▼社殿と同時に昭和に新築された社務所は大きく立派です。
▼その社務所前は車が多く駐車できそうなスペースがありましたが、神社回りを一周したものの進入路は見つかりませんでした。
兄妹らしき二人が広い境内を使ってサッカーに興じています。
礼儀正しくも遠慮ない遊び方は神社の子供か、関連する子たちのようです。
玉川神社境内を出て北側にすすみ坂道の上に出て、
御朱印をいただいた境外社の「瘡守稲荷神社」へ向かいます。
▼5分も歩かないうちに、信号のある交差点の左手に瘡守稲荷の社号標が現れます。
「瘡守稲荷神社」の「瘡」という文字を「かさ」と正確に読める人は少ないでしょう。全く身近にない言葉だからです。
医療が近代的なものになる前の「瘡」は忌み嫌われ、不治の病いとしてみられた皮膚病、性病だったのでしょう。
性病の蔓延はこの地域の風光明媚さに人が集まり、幾つもある寺社の周りに遊郭が出来たことが要因だったのでしょう。
近代医学の恩恵が一般の国民に行き渡る前までは、もっぱら神頼み、仏頼みしかなかったのですから、この手の神社が現在も数多く見られるのは理解できるところです。
当時は防ぎ方法も、対処法も確立できていない、まさに常にパンデミックという脅威の中に人々は生きている中で神に祈ったのです。
▼この参道を「お百度参り」した人はどれほどいた事でしょう?
▼そんな時間を狐像たちも経験してきた「とき」だったかもしれません。
▼「大正十年二月初午」の文字が彫られています。この地域が現在とは形の違う賑わいを見せていた最盛期のころだったようです。
病気の種類は異なっても「瘡」が恐れられていたように、21世紀の現代医学が発展した中でもガンを恐れ、新しい感染症に怯える人間に大きな違いはないのでしょう。
世界中の感染症が治ることを祈って神社を出ます。