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御朱印迷宮

関東を中心とした寺社の御朱印記録です。参拝・収集目的に少しでも役立てば幸いです。

文殊院 清龍寺の御朱印(福島・会津美里町)〜「日本三所の一つ」?????

護國山 文殊院 清龍寺御朱印

もんじゅいん せいりゅうじ天台宗福島県大沼郡会津美里町文珠西)

 

文殊院 清龍寺御朱印です。

文殊菩薩梵字印に、中央の墨書きは「大聖 文殊」でしょう。多分!

左下の寺印は「文殊院 清龍寺 〇〇〇」で、一部分かりません。

 

▼「文殊」は岩代国一之宮「伊佐須美神社」の北隣に位置します。

只見線の「会津高田駅」からは徒歩だと20分も必要です。

 

▼県道沿いに「日本所の一つ 大聖文殊菩薩」の大看板が立っています。

「日本文殊」でも「日本文殊」でもありません。「日本」です。

 

本ブログでは時々、この3つのものの総称としての「大○○」という話を記事にしています。

明確に誰が決めたわけでも、認定したわけでもないのですが、いつの間にか定説になっているものもあり、「」の仲間に入れて欲しい候補者が多数ある紛らわしいものも多くあります。

 

この「」という総称は日本だけに限らず、世界的な文化にも及んでいます。

例えば大珍味大美女大料理大宗教など挙げたらキリがありません。

さらに「二大」「四大」「五大」などと言う総称もありますが、

圧倒的に多いのは「」でしょう。

二つじゃ寂しいし、五つでは覚えられないし、四では縁起が悪い、などという理由で「」が一番好まれているのかもしれません。

 

さて、文殊院は「日本」と謳われています。

」という言葉は、熊野の「所権現」、江戸時代の「所問屋」などに使われています。

文殊の「日本」を調べてみました。

どうやら、

紙の文殊京都府智恩寺」、

硯墨の文殊奈良県安倍文殊院」、
そして、ここ会津高田文殊院が「筆の文殊」で

日本」だそうです。

 

」「硯墨」「」のつですので、書道・学業・知恵などに結びついて、

それぞれご利益がいただけるとのことらしいです。

 

紙の「智恩寺」と、硯墨の「安倍文殊院」は「日本文殊」とダブっています。

あと一つの山形「亀岡文殊」を加えて「日本文殊」です。

 

」の文字が羅列していて、下手な説明で分かりづらい「日本」でしたが、

一人では覚えきれないかもしれません。

やはり「人寄れば文殊の知恵」は納得の諺なのでしょう。

 

▼話は現場に戻って「文殊堂」は装飾彫刻と組物で凄まじい状態になっています。

▼大阪には「獅子窟寺」という寺があるそうですが、獅子窟の意味は分かりません。

言い伝えでは清龍寺のの創建は1339年。

その後、ある夫妻が子を授かりたいと願い、妻が文殊堂に籠って祈願したところ、後に「天海僧正」となる子を授かったそうです。

 

▼チョコンと座るようなユニークな表情の木鼻も見えます。

▼お堂の中を覗いて、失礼ながらパチリ。法具類の奥に見えるご本尊は小柄な文殊さんのようですが、1年に1度だけの御開帳だそうなので御前立なのでしょう。

伝承により天海と深い関わりのある文殊院は、上野寛永寺とも繋がりがあり、かつての幕府からはつ葉紋葵も拝領しているそうです。

▼「出羽山」の湯殿山へは東京からよりは近いものの、会津からは約160km。

 

仏都会津」と言われるだけに、文殊院も見どころと歴史がいっぱい詰まった寺の一つでした。

御朱印巡りとしては一度しか訪れていない会津は、二度度訪問したいものです。

浄閑寺の御朱印(東京・荒川区)〜「投げ込み寺」と「吉原」と「山谷」の関係

栄法山 清光院 浄閑寺御朱印

じょうかんじ」浄土宗(京都荒川区南千住2-1-12)

 

浄閑寺御朱印です。

中央の筆文字は本尊などでなく現在、寺の史跡になっている「新吉原総霊塔」が書かれていて、そのバックも法印などではなく吉原の遊女のイラストスタンプ。

本来の御朱印というより参拝記念的要素の強いものになっています。

 

浄閑寺へは地下鉄「三ノ輪駅」北口より徒歩1〜2分。

 

現在は「吉原」も「山谷」も地名としては残っていませんが、

浄閑寺を知る上で「吉原」や「山谷」の

▼位置関係を理解しておくと分かりやすいかもしれません。

浄閑寺から吉原の入口「見返り柳」までは距離にして800mほどです。

吉原の西には「鷲神社(おおとりじんじゃ)」や「吉原神社」が鎮座します。

 

浄閑寺の近くを歩いていると軒下に何処かで見たような紋がありました。

木曽御嶽神社」や、大田区の「御嶽神社」でいただいた御朱印の神紋です。

▼「御嶽山大教」という看板が出ていました。

信州木曽の霊峰「御嶽」信仰の教会のようでした。

御朱印を収集している者でないと、こんな神紋や看板には気を止めないでしょう。

 

浄閑寺の「山門」は江戸時代に建立されたので、右手には広い駐車場もあります。

▼山門手前脇にあるのは「小夜衣供養地蔵尊」。

小夜衣(さよぎぬ)」は江戸時代、無実の罪で火あぶりの刑にされた吉原の遊女で、

その祟りが絶えないことから霊を慰める供養が行われるようになったそうです。

現在この地蔵尊は、おきまりの「悪い部分をなでると良くなる」という言い伝えに変わっているそうです。

▼それにしても相当年月を経た姿になっている地蔵像です。

遊女の名前がそのまま地蔵名になっているのは多くはないでしょう。

 

荒川区により浄閑寺通称の「投込寺」の説明が英語でも紹介されています。

吉原遊郭に関わる寺なので諸外国の人々も興味を持たれるのかもしれません。

▼山門をくぐると正面が「本堂」です。

 

江戸幕府公認の「吉原遊郭」は、元々は日本橋人形町にあり、明暦の大火後に浅草寺裏になる「日本堤」に移転しています。

人形町時代の吉原を「元吉原」、移転後を「新吉原」と呼ばれています。

御朱印に墨書きされている文字も「新吉原」です。

 

 

一般的には日本橋人形町遊郭があったことは広くに知られてはいません。

吉原」と言ったら、当たり前に浅草寺裏、現在地の「千束」を指します。

1957年の「売春防止法」施行までは公に営業されていました。

現在、その地名は消滅していますが多くの「ソープ」があり、その「仕事」が継承されています。

 

 

浄閑寺の創建は「新吉原」が誕生する前の1655年に創建されたと伝わります。

江戸時代後期1855年の「安政地震」の際には、たくさんの新吉原の遊女が投げ込まれるように葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになったそうです。

 

 

」で縛られていた吉原の遊女たちは、

「心中」「枕荒らし」「足抜け」「廓内での密通」」など、その掟を破った者は

「○○売女」という戒名をつけられ、菰に包まれ寺に投げ込まれたとも伝わります。

 

江戸最大の遊郭で最盛期は数千人の遊女たちがいたわけですから、

女たちの悲劇、喜劇も盛りだくさんだったのでしょう。

 

▼境内左手奥が墓域になっていて史跡の紹介もされています。

 

▼この墓石には「角海老 若紫之墓」と刻まれています。

若紫は、現在も吉原にその名称を引き継ぐ「角海老」の遊女。

明治26年に客に心中を強いられて死亡したそうです。

遊女の墓が個別に建つことは少なく「若紫(わかむらさき)」は別格のようです。

 

▼戴いた御朱印に墨書きされていた「新吉原総霊塔」です。

1793年以来の供養塚が改修されています。

1855年安政の大地震で横死した遊女500人余りもここに眠ります。

新吉原の廃業までの約380年間に浄閑寺に葬られた遊女を含む遊郭関係者は25,000人ほどの数が推定されています。

▼花又花酔という川柳作家の「生まれては苦界 死しては浄閑寺」句碑。

遊郭の遊女たちの人生は悲劇ばかりではなかったでしょうが、

象徴的に「苦界」と表現されている吉原です。

 

▼「荷風」と刻まれた現代的造形の「永井荷風の筆塚」。

玉の井」などの色街に熱心に通った荷風は、吉原にも足を運んだことでしょう。

その遊女たちの悲劇も目にしてきた荷風は、ここ浄閑寺にも足を運んだそうです。

震災」という荷風の詩碑。

関東大震災を体験し、その後の時代の変化に対する荷風の実感が表れています。

▼「ひまわり地蔵尊」は「ドヤ街」と言われた「山谷」に住み一生を終えた日雇い労働者たちの死後の安らぎを願って建立されています。

ひまわりの花は、太陽の下で一生を働きぬいてきた日雇労働者たちのシンボルともされているそうです。

東京のドヤ街山谷地区の「泪橋」が舞台だったのはスポーツ漫画「あしたのジョー」。

その発表から半世紀以上が経過していますが、まだその関心は失なわれていないようです。

その山谷に多くあった簡易宿泊所には日雇い労働者たちが15,000人も寝起きしていた時代もあったそうですが、

半世紀の間にバックパッカーたちに、英語表記の格安ホテルとしても利用されるようになり、年間10万人の宿泊客数の記録が残っているそうです。

 

▼「三遊亭歌笑」は、戦後昭和の人気噺家

▼「首洗いの井戸」。

親の仇である平井権八を追った本庄兄弟

先に兄助七が平井の返り討ちに遭い、さらに兄の首を井戸で洗っていた弟助八もそこを襲われ命を落とすという、仇討ちに失敗し、悲惨な末路をたどった兄弟の最期の地がこの井戸だそうです。

 

▼「新比翼塚」は情死した遊女「盛絲(せいし)」と、内務省の小使の二人の追善に建てられたもの。

永井荷風はこの比翼塚に興味を持って浄閑寺を訪問しているとも伝わります。

 

▼ダークなネタの多い浄閑寺ですが、この時は弁財天も涙を流しているように見えました。

 

▼「吉原」に鎮座する神社記事と荷風関連記事。

wave2017.hatenablog.com

赤羽八幡神社の御朱印(東京・北区)〜社務所の下を新幹線が走る「∞」神社

赤羽八幡神社御朱印

あかばね はちまん じんじゃ主祭神応神天皇東京都北区赤羽台4-1-6)

2018年にいただいた時は「ドハデ」な御朱印にびっくりしましたが、

その後の巷の御朱印変化は著しく、

2022年現在では当社の御朱印も驚くに当たらない存在になっています。

 

赤羽八幡神社御朱印です(2022年)。

赤羽八幡神社御朱印です(2018年)。

御朱印はいずれも朱印帳に記帳いただきましたが、よく見ると日付以外はスタンプを駆使しています。

いったい何個のスタンプが押されているのか、数えるにも大変です。

それにしてもスタンプを意識させず、御朱印全体がうまくまとめられているのは拍手ものです。

 

▼希望で誕生日還暦一粒万倍日などのスタンプも押していただけます。

大開運吉方位日」の限定御朱印も案内されていました。

大開運吉方位」とは「九星気学」という吉方位や運勢を占うものらしい。

本ブログでは、おみくじ、占いの類はほとんど興味のない分野です。

 

御朱印は境内で一番高い位置に建つ社務所受付でいただけます。

この社務所の下が東北・北陸・上越・秋田・山形などの各新幹線が通過する500mほどのトンネルになっています。

 

▼当社へはJR「赤羽駅」西口から北へ500mほど歩きます。

もう一つの最寄駅地下鉄「赤羽岩淵駅」の方が少し近いようです。

 

▼新幹線のガード下沿いに歩いてくると坂の上に鳥居、ガード下に神社入口看板が。

▼坂は車用なので、看板を右手に進むともう一つの鳥居があります。

▼こちらが表参道でしょう。勾配のきつい石段が境内へと続いています。

▼登り切って境内側から見た石段上の鳥居。ここはかつての「赤羽山」。

▼石段上のニノ鳥居をくぐるとすぐ右手に「手水舎」。

上の写真はまだ柄杓が置かれていましたが、

▼2022年、多くの神社がこのスタイルになっています。

▼正面に社殿。関東大震災後の再建で、向拝下の彫刻が立派です。

▼社殿前の一対の狛犬も、まだ造りが新しいようです。

威嚇するような表情は、神を守る強い意志の表れでしょうか?

どちらかと言えばトボけたような、ユニークな表情の狛犬が好みです。

由緒によれば、784年の創建で、
東征の途中の坂上田村麻呂が当地に八幡神を勧請して戦勝祈願したのが始まりだそうですので、1200年以上の古社となります。

1200年以上の長い歴史の中には当然、神社の盛衰があります。

源頼光や太田一族などの再興、のちに家光による朱印地寄進などを経て、

明治以後は郷社、その後は村社とされています。

さらに時は降って近年の上越東北新幹線の建設が決まり、ひと騒動。

怖れ多くも本殿の下を新幹線が通る、ということは辛うじて避けられ、

社務所の下にトンネルがくり抜かれることで国と神社側とで話がついたようです。

新幹線がゴーゴーと音を立てて神社脇を通過するより、

音も聞こえぬように地下を通過するほうが結果的には良かったのでしょう。

境内にいると遠い通過音は聞こえるものの、神社下を新幹線が走っていることは全く気づかせません。

▼「楽殿」のある社殿の右手に回ってみます。

▼稲荷社でしょうが、神狐は無残にも塗装が剥がれています。

▼こちらは「赤羽招魂社」。

戦没者を慰霊する社は、一時は200名を超えるかつての戦友たちによって盛大に慰霊祭が執り行われていたそうです。

▼その脇に「神輿庫」が並びます。

▼捨てることのできない様々な奉納像が集められているようです。

▼こんなところにも賽銭が・・・「バンザーイ」です。

▼社殿左手は整備された境内社に鳥居が建ちます。

▼9月半ばでも「サルスベリ」の花がはまだ満開ですが、綺麗に撮れていません。

▼本社前の狛犬と違いこちらの体躯はスマートで、表情も和やか。

参拝者次第で威嚇とも笑いとも取れる表情です。

▼合祀殿は大国主疱瘡稲荷住吉神社など八つの社が並びます。

▼その足元には大國像などが置かれています。

▼稲荷社前の狐像。すばらしい目つきをしています。

▼右端の北野神社前には小さな「撫で牛」。

▼ほんとミニチュアです。それでも参拝者に撫でられ光っています。

▼撫でられ満足気な表情です。

▼こちらも小さいですが、石造り牛像も撫でられたような形跡が見られます。

▼合祀殿の脇に鎮座するのは「古峰神社」。

鹿沼市から勧請されたであろう「ふるみね」「こみね」さんです。

 

▼上を向いているウサギも撫でられる対象なのでしょうか?

猿田彦の講碑と庚申塔

庚申塔は大小いくつもあります。庶民の篤かった庚申信仰が伺えます。

▼古そうな手水鉢に刻まれた願主の名前は「〇〇兵衛」「〇〇右衛門」。

▼境内の南側には狐たちのオールスター状態。

かつては、地域のそれぞれの村々にあった稲荷社に置かれていた神狐かもしれません。

▼そして、境内の南端に下界を展望できる空間があります。

▼北へ延びる大動脈が忙しく脈打っています。

▼やって来ました! この列車が当社の社務所下を通過します。

▼北の都市を目指す「はやぶさ」なのでしょう。

▼手前から社務所下を通過するのは「埼京線」でしょうか?


様々な車両が行き交うトンネルの上の境内に

御朱印ファン、関ジャニファン、鉄道ファンなど、様々な訪問者が行き交い、

参拝者の絶えない神社でした。

神社の1200年の歴史は、未来「∞」に続くのかもしれません。

連祥院「六角堂」の御朱印(栃木市)〜一大霊場 太平山の「Hexagon」と虚空蔵菩薩

太平山 連祥院 六角堂御朱印

れんしょういん ろっかくどう天台宗(栃木県栃木市平井町643)

 

連祥院六角堂」の御朱印です。

墨書きは「虚空蔵尊」「六角堂」です。

サラ、サラーと驚く速さで揮毫いただきました。

筆文字の基本を身につけている人は、行書や草書も崩れることなく筆を運ぶことができるのでしょう。

毎度のことですが、ボールペン文字もマトモに書くことのできない身には溜息ばかりです。

 

▼六角堂は太平山公園の麓というか、太平山神社へと続く長い坂の途中にあります。

▼車ですと「太平山遊覧道路」の終点で「太平山公園線」に繋がる地点に太平山神社の石鳥居があります。

▼鳥居をくぐると「六角堂」が左手に見えました。

六角堂」は大平山 連祥院の別称です。

京都市中京区にある西国三十三観音第十八番札所「頂法寺 六角堂」を模して建立されているため「六角堂」と呼ばれています。

 

京都の六角堂は賑やかな街中にありますが、栃木の六角堂は緑豊かで風光明媚な山懐に建ちます。

827年、慈覚大師円仁により創建され、江戸時代までは太平山神社の別当を務めていました。

▼当時の大宗教霊地「太平山」が絵図になっています。(▼写真は「太平山 六角堂」から拝借)

野州太平山之圖」は線画で描かれていて分かりづらいですが、

山上の「太平大権現」から山の麓まで石段が続き、途中多くの堂宇が描かれています。

まさに一山が霊場だったことが理解できます。

石段途中の仁王門の左に「別當所」と書かれているのが連祥院だったのでしょう。

 

創建から約700年後の天正年間には戦火により堂宇が失われたものの、その後しっかり再建されています。

しかし、さらに時代を下って明治になると神仏分離令により、太平山の仏閣、寺院、別当所は廃棄され、他の多くの寺院と同じ運命を辿ることになります。

しかし、太平山の本地仏虚空蔵菩薩」は難を逃れ、現在も連祥院の秘仏として安置されています。

明治期後半には、二度にわたり新たな本堂が建立され、改修を加えながら現存されています。

堂内には秘仏虚空蔵菩薩のほか愛染明王不動明王が安置されているそうです。

 

ところで「虚空蔵菩薩」は

他の観音菩薩地蔵菩薩と違って具体的なイメージが描きにくい菩薩です。

東日本で有名な虚空蔵菩薩

福島の「柳津虚空藏尊」、茨城の「村松山 虚空蔵堂」などがありますが、

どこも秘仏なのか、具体的に見る事ができないせいで菩薩像をイメージできませんので、

▼連祥院 六角堂のHPからお借りした菩薩像です。

お借りした写真ではありますが、これは「御前立 」。

お前たち」ではありません!「おまえだち」です。

▼そしてこちらは「東大寺」大仏脇侍の虚空蔵菩薩。     (▼写真はwiki「虚空蔵菩薩」)

六角堂の虚空蔵と東大寺のそれに明確な共通点は見つかりません。

やはり虚空蔵菩薩の像容は様々で、これという決定的なキーはないようです。

 

如来像でも大日如来薬師如来は容易に見分けつきますが、

阿弥陀如来釈迦如来は見分けは困難です。

 

鎌倉大仏に「かまくらや みほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」という

与謝野晶子の歌碑がありますが、鎌倉大仏は釈迦ではなく阿弥陀如来です。

与謝野晶子は見誤ったのか、聞き違えたのか、あるいは故意だったのか分かりません。

 

見分けのつきにくい虚空蔵菩薩像ですが、一般的に多い姿が

五仏宝冠をかぶり、右手に利剣、左手に如意宝珠を持つ」のだそうです。

▼写真は飯能市「円泉寺」からお借りしました。

同じく剣を持つ像に文殊菩薩があります。

やはり仏像を見分けるのは簡単ではなさそうです。

 

▼太平山神社と、お隣り的位置にある太山寺の記事。

▼京都・六角堂の記事。 

wave2017.hatenablog.com

 

日枝神社・水天宮の御朱印(東京・清瀬市)〜感動ものの3つの神社に3つの参道

日枝神社・水天宮御朱印

ひえ じんじゃ すいてんぐう

主祭神日枝神社大山咋神・水天宮=安徳天皇(東京都清瀬市中清戸2-616)

同じ境内に二社が鎮座するので、御朱印も仲良く二社の神社名が並んでいます。

境内も右が日枝神社、左に水天宮が鎮座し、御朱印の並びと同じ。

 

一般的にはどちらかが境内社とされることが多いのですが、こちらでは同等扱いです。

だとしたら、通常は別々の御朱印になったり、見開きの御朱印になったりしますが、

当社はシングルページに納まっています。

このパターンは他の神社にあったかどうか思い出せません。

 

日枝神社・水天宮御朱印です。(2022年)

日枝神社・水天宮御朱印です。(2015年)

7年間のブランクですが、御朱印に変化はありません。

神社印も同じで、経年変化で線が太くなったのかもしれません。

 

もちろん2015年、初穂料300円の御朱印は、2022年には500円です。

御朱印は拝殿手前の授与所でいただきました。

 

▼当社へは「清瀬駅」北口から徒歩約12分。同駅からバスも運行されています。

神社の前の通りはけやき並木が気持ちの良い「志木街道」。

▼神社前の交差点名は「水天宮前」となっています。

▼志木方面から社頭を過ぎて直ぐの交差点を右折すれば広い専用駐車場があります。

▼社頭と道路を挟んだ反対側に無人の野菜売り場。東京で獲れた野菜です。

都下でも奥多摩方面にやってくると時々見かけられる、こうした無人の直売は何故かほのぼのとした気持ちにさせられます。

写真撮影に一生懸命で、野菜を吟味するのを忘れました。左上の唐辛子100円を買ってくるべきでしたが、あとのまつり!

 

▼さて神社は「志木街道」に面して3つの鳥居が建ちます。

▼手前から向かって左は「御嶽神社」。

▼真ん中が「水天宮」。

▼右端が「日枝神社」です。

▼大雑把に整理すると境内はこんな図式になっていて仕切りはありません。

▼まずは山王鳥居が建つ「日枝神社」の参道を進みましょう。

▼「三清」とは江戸時代までのこの地域の上清戸村、中清戸村、下清戸村を表しています。

当社には東征の折の日本武尊が「清き土なり」と言い残したと伝承されています。

そこからこの地は「清土」と呼ばれ、やがて「清戸」と変化しています。

清瀬」の地名は「戸」と、市内を流れる「柳川」から一字ずつ取って名付けれたそうです。

▼石灯篭がたくさん並ぶ参道を進むと「三猿の石燈籠」が保存されています。

▼見ざる、言わざる、聞かざるの三猿が灯篭の足元に彫られています。

山王の神の使いは健気にも300年以上の雨風に耐え抜いてきたようです。

▼こちらは三猿ほど古くはありません。

▼親獅子の大きな手が子獅子をひれ伏させているかのような姿の彫りは緻密です。

▼左手に「手水舎」。柄杓はありませんが水は豊富に出ています。

▼華麗な堂々とした社殿です。

日枝神社の由緒では創建は1579年、天正年間と言われてます。

拝殿はコンクリート製に見えますので昭和の再建でしょう。

▼次は左隣の「水天宮」の鳥居まで戻って参道を進んでみます。

日枝神社と同じ長さの参道がまっすぐ延びています。

清められてシンプルな参道は王道のような姿で感動します。

▼途中、境内西側の駐車場から入る鳥居と車祓所が見えます。

▼西側から古そうな鳥居をくぐってみます。

▼「弘化四年」の文字が刻まれています。1848年です。

▼「手水舎」は日枝神社と共通になっています。

▼水天宮拝殿前にも新し目の狛犬。こちらも彫りが深い。

当社は久留米市の水天宮御本社より分霊を勧請していますが、創建などの詳細は不明。

▼木造の水天宮の拝殿は気品があり、朱色の日枝神社とは違う趣があります。

▼水天宮の参道左手には「御霊社」を始め、いくつかの境内社が並びます。

「御霊社」の右隣に日本武尊が休んだと伝わる(ひいらぎ)は、昭和の初めに枯れてしまったそうです。そのガイド版と柊の「ひこばえ」があります。

▼手前から「白山社」。

▼「金刀比羅神社」。

▼「八雲神社」は牛頭天王を祀っています。

▼「猿田彦大神」の碑。

 

▼さらにもう一度、志木街道の通りまで戻って3つ目の参道は「御嶽神社」に延びます。

木曽御嶽山より慶長年間に分霊を勧請されたと伝わります。

▼昔から「御岳山」と呼ばれ、地元の人々の篤い崇敬を集めているそうです。

この景色は当社一番の感動的な眺めでした。

 

▼元の形をとどめない古い手水鉢のようです。

狛犬も色からして古そう。200年、300年は経過しているのかもしれません。

▼ほぼ満身創痍的な姿は痛々しいけど可愛い。

▼山上の社の祭神は「国常立神」ほか二柱の神が祀られています。

▼「御岳山」から地上の眺めです。

三つの参道と三つの神社のなかで一番印象に残った「御嶽神社」でした。

山の麓には「御嶽」の他に「富士山」の文字や庚申塔も見かけられました。

 

三社のあちらこちらで歴史を感じさせられた「日枝神社 水天宮」でした。

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