高橋山 放光寺の御朱印
左下の篆書の印はまったく読めません。
あてずっぽうでも「談林●●放光禅寺之印」?? 無理です。禅寺でもないし!
あきらめましょう。
2022年現在では、このほか愛染明王や大黒天の3種類の御朱印がいただけるようです。
▼「放光寺」は、あの有名な「恵林寺」のすぐ北、裏方面にあります。
▼車で寺の駐車場を目指していると水車に出会いました。
「西藤木の水車」と呼ばれるもので江戸時代に建てられたものが現在まで引き継がれ、昭和40年代まで実際に地域の産業に使用されていたそうです。
▼水車から先に進むと「仁王門」。
写真はありませんが、内部には国の重文に指定されている仁王像が2体立っています。
何しろ訪問時の2013年は、まだ御朱印をいただくのが精一杯。
現在ほど社寺の建物や像などの造立物や、寺社の歴史などにも大きく興味を持てず、理解もできませんでした。
ただ、ひたすら御朱印でした。
勿体ないやら、バチ当たりやらで、まさにスタンプラリーの状態だったことを今ではハジています。
放光寺は武田氏の祖で新羅三郎義光の子孫という甲斐源氏・安田義定が源平合戦で功績をたて、一ノ谷の戦いの戦勝を記念して1184年に創建。
後に武田信玄も放光寺を祈願所にしています。
仁王門から反対側を見ると別な門が建っていたのでそちらへ戻ってみます。
▼「山門」でした。
仁王門も山門も建てられた時代は分かりませんが、水車とともにこの寺を訪れた時に目にできる風景は、近くの「恵林寺」に劣らない良い姿を見せてくれます。
▼その歴史も鎌倉時代後期創建の「恵林寺」より古く、1184年と紹介されています。
重要な文化財も多く所持しているものの、戦国時代には「恵林寺」同様、織田・徳川軍による戦火で堂宇の全ては焼失しています。
したがって多くの建物はその後の再建によるものでしょう。
地理的には500mも離れていない「放光寺」と「恵林寺」ですが、知名度は5千光年離れています。
観光バスを動かし、停車させる材料はあるはずです。
その受け入れ態勢を整えられれば、恵林寺に太刀打ち、いや同等に参拝者が訪れ、知名度も上がる寺になれる可能性はでしょう。
多くの寺もSALES内容に大きく左右され、檀家に頼らずビジネスとして成り立つ場合も多くあり「放光寺」も、その一寺かもしれません。
もっとも敢えて、一般人が多く訪れるような路線を避ける寺社もなくはありません。
今時でいうと御朱印を授与しない寺社もごく稀に見られます。
それぞれの理由、主張があるでしょうから一概に知名度が上がれば全てヨシとは言えないでしょう。
▼江戸時代に再建された「本堂」の扉は開かれていました。
▼この扁額の文字は「放光寺」と知っていなければ、読めるものではありません。
▼観音像でしょうか? ググッと前に出て縁近くに立っていらっしゃいます。
▼本尊はこちらの「大日如来」ですが、現在は収蔵庫に納められているそうです。
(▼写真は「放光寺」)
▼「愛染堂」に祀られているのは、弓と矢をつがえた「天弓愛染明王像」。
▼お堂の奥まった暗い箇所にいらっしゃる重文の明王は、安いカメラと下手な撮り手にには明瞭な姿を見せてくれませんが、カッコイイと思わず呟く姿でした。
▼放光寺創建者の甲斐源氏一族 安田義定が祀られている「毘沙門堂」の奥は庭になっているのでしょう。
訪れたのは11月でしたが、額縁の中の松は青々と輝いていました。
甲斐ではゆっくり丁寧な参拝ができていない寺社ばかり。
再訪を願いながら10年近くが経過してしまいました。
そして未だ具体的な訪問計画はなし。
それでも寺社は逃げないので、ゆっくり構えることにしましょう。
▼おトナリ「恵林寺」の記事。