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御朱印迷宮

関東を中心とした寺社の御朱印記録です。参拝・収集目的に少しでも役立てば幸いです。

熊野町 熊野神社の御朱印(東京・豊島区)〜鯉泳ぐ「導きの社」に 恋する

熊野町 熊野神社御朱印

くまのちょう くまの じんじゃ主祭神:伊佐奈美命(東京都板橋区熊野町11-2)

 

熊野町 熊野神社アマビエ限定御朱印」。

朱印帳4ページ分を使用して直書きでいただきました。

しかし、お願いするパターンを間違ったかもしれません。

授与所のサンプルをよく見ると、当ブログとしてはスタンダードな1ページもの、もしくは2ページを使用した御朱印で十分だったようです。

 

これまで無名だった「アマビエ」は、2020年以降「アマエビ」と同じくらいにスッカリ有名になり、とりわけ御朱印には様々な寺社で、様々な形で数多く現れました。

御朱印収集者にはいくらか食傷気味でしょうか、2022年になってからは、そんなには見かけなくなりました。

当ブログとしては最後の「アマビエ」御朱印として、そして「お役目ご苦労様です」、常には「目立たない存在で良いのですよ!」と勇退願うことにしたいものです。

 

▼よく見かける「疫病退散」ではなく、読みの難しい文字「猖獗退散」の印が押されていました。

猖獗」は「しょうけつ」と読み、意味は「たけくあらあらしいこと」「わるいものの勢いの盛んなこと」だそうです。

 

社務所内に置かれていた御朱印サンプル。

御朱印は境内右手奥の社務所でいただきました。

 

東武線、地下鉄など周辺にはいくつも最寄となる駅を利用できますが、いっそのこと「池袋駅」から歩いても1.5km以内でしょう。

マップでは「導きの社」となっている当社が鎮座する熊野町交差点は

山手通り」「川越街道」「首都高5号線」、さらには「首都高中央環状線」が交わる地点で、その喧騒感は只者ではありません。

交通量が多く信号で止まる以外、一時も落ち着けず、どの方向の車も高速で駆け抜けるような交差点です。

これまで、この交差点を何度通過したことでしょう。

それでもこの神社に気づきませんでした。

脇目なんか巡らしている余裕を与えない交差点でした。

 

▼神社境内北側にある一通です。池袋方面からここに来るまで容易ではありませんでした。反対に池袋に向かう方向からなら、それほど難儀ではないかもしれません。

近隣に有料駐車場はありますが、ボンビーは駐められることを確認して境内への進入を試みます。

▼しかし、この一通は見た目の写真より狭く、右折するには車を直角に90度の角度を作らなければなりませんが、切り返さなければ無理です。

▼1回で思いっきり角度を作って進入したものの、右後輪を鳥居の基礎に擦りました。

普通車ギリギリの鳥居下でした。ヤレヤレ!

それでも境内に入ればターンができる広さはありました。

 

▼山手通りに沿った表参道に回ります。

過去に目にしたことがないほどの鯉のぼり飾りの賑やかさで、これほどなら熊野町交差点を通過するときにも気づいたかもしれません。

▼鳥居を振り返ると山手通りの上に重ねられた首都高の壁が無粋に立ちはだかります。

▼鳥居脇の近代的な造形の狛犬に挨拶。

▼「手水舎」で清めます。

▼身を寄せ合う小さな八咫烏。あちらこちらで八咫烏が置かれています。

▼水盤の中はビー玉かな?カエルの卵か、海藻のようにも見えます。

八咫烏が船出を待っています。

▼駆け足しているこのキャラの名は? どこかで見たように思いますが・・?

思い出しました、街角で見る道路の飛び出し注意を喚起するキャラでした。名称は知りません。

 

▼「幻想の庭」は本殿左手←←←の案内。後ほど向かいます。

▼社殿前にもう一対の狛犬。ふっくらモコモコしています。

▼反対側の阿形は看板の裏側と対峙して少し窮屈な位置にあります。

創建は応永年間と言われていますので室町時代になり、鎮座約600年です。

当然「熊野権現」が勧請されており「熊野社」とか「熊野三社権現」とも呼ばれていたそうです。

戦時中の空襲で建物の全てを焼失しており、戦後の昭和になってコンクリート製の社殿が再建されています。

▼箱の中は八咫烏たちが1年間の役目を終え休んでいました。

▼「本殿」も朱色で美しい姿を見せています。

▼「楽殿

▼「神楽殿」の脇に「幻想の庭」の案内。

様々なものが混ざり合い共存する不思議な空間」と説明されています。

▼確かに色々なものがありそうな、きれいに整えられた庭です。

▼「伏見稲荷」は不思議でもなんでもありません。

▼古くからある稲荷社なのでしょう。手前の狐像は不思議な形をしています。

キツネのお面もユニークです。稲荷社によくあるジトッーとした雰囲気を和らげます

 

▼「おもかる石」はどこにあるのかと思ったら、灯篭の上の石がそれのようです。

▼「わかれの木」の脇に「出世不動」。いよいよ何でもありです。

▼覆屋のなかに石の祠。

▼「厳島神社」も鎮座です。

▼「厄割良縁石」は新し目。

▼カッパとカエルが見つめる池もあり。

▼こちらは小さな「白衣観音」。神仏習合時代から信仰を集めていたのでしょう。

幻想に庭」は他には見かけないネーミングが秀逸。神社を親しみやすく身近なものにしてもらいたいという努力が感じられる一画でした。

 

神仏習合の形は社殿脇の「地蔵尊」にも現れていました。

通りがかりの年配の女性が熱心に手をあ合わせていました。

御朱印をはじめ鯉のぼりの飾りつけなど、季節ごとのさまざまな企画が地元の人たちにも神社を改めて見直す良いきっかけとなっているのでしょう。

おそらく若い神職さんの考えでの「神社創り」でしょうが、地域の神社がこんな風にイキイキとしているのは頼もしいい限りです。

小国神社の御朱印(静岡・森町)〜石松伝説の町、森深くに鎮座する一宮

遠江国一宮 小国神社御朱印

とおとうみのくに いちのみや おくにじんじ」( 静岡県周智郡森町一宮3956-1)f:id:wave0131:20220408160945j:plain

遠江」を「とうとうみ」と読ませられるのですから、これは覚えるしかありません。

」は「入り江」と覚えていましたが、「入り江」は広い意味でくくれば「」としてもおかしくないのでしょう。

その「遠江国一宮」は「おぐに じんじゃ」と読みたいのですすが、

濁らず「おくに じんじゃ」でした。

 

▼「遠江国一宮」は、もう一社「事任八幡宮」があります。

 

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▼誰もが知っている「森の石松」の「森町」は広く、そのほとんどが山林です。

かつては秋葉山本宮秋葉神社へ通ずる秋葉街道の宿場町として賑わったそうです。

現在は人口2万人足らずの町で「遠州の小京都」とも言われているそうですが、それはあまり話題にならず、やはり有名にしているのは次郎長一家の「森の石松」です。

 

しかし「石松」は実在なのか、架空の人物なのか正確にはわからないようです。

とは言え「スシ食いねェ!」の話としては実在した方が面白いに違いありません。

 

現在も愛知県新城市に生家が伝わり、今回訪問の「小国神社」の近くの「大同院」に墓があります。

あまり有名なせいか、墓は他にも複数ありどれが本当の墓か分かりません。

石松は人気者に繋ぎ止めおくべく、森町では3年に1度「森の石松まつり」が開催され、森町の市街地から大洞院まで道中が練り歩くそうです。

 

▼そんな森町に鎮座する「小国神社」は googlemap にも「大自然に囲まれた神社」と説明が記されています。

天竜浜名湖鉄道遠江一宮駅」から送迎バスが出ているものの、車以外ではアクセスが悪いようです。

 

▼神社に着いたら、いきなり夕立に出会いました。しばらく車の中で退避です。

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ドシャ降りが少しおさまり、小降りになりました。この機に急ぎ参拝です。

▼参道は小降りの雨も1000年の古い大木に遮られ気になりません。

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▼「ことまち池」、別名「いぼとり池」の向こうに見えるのは「八王子社」。

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当社の創建は神代の時代。

古墳時代の6世紀とも言われていて、当社より北へ6kmほど離れた「本宮山」に神霊が現れ、勅命によりそこに社殿が造営されたのが始まりだそうです。

現在はmapで「奥磐戸神社小國神社奥宮)」と表されているのが神霊出現地なのでしょう。

奥宮に社は建つものの標高500mくらいの位置にあるから、たどり着くには完全に登山になるでしょう。

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「小国」とは出雲国の「大国」に対し遠慮して、遠江の「小国」としたようです。

 

家康が社殿を再建し、江戸時代に入ってからも歴代の将軍が社殿の造営や営繕、社領の寄進を行ってきたそうです。

しかし、多くの建物は明治に入ってから火災で焼失されていますので、現在のほとんどの建物はその後の再建によるものです。

焼失以前には巨大な「楼門」も備わっていたそうです。

 

▼それでも再建された社殿は、式内社、一宮たる風格、威厳を持った「拝殿」です。

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▼祭神の「大己貴命(おおなむちのみこと)」、つまり大国様にご挨拶します。

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雨模様の朝9時過ぎの早い参拝に、ほかの参拝者は数組だけ。

静謐な境内はゆっくり参拝できるはずでしたが、この後の予定に時間余裕なく、駆け足での参拝となりました。

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▼昭和の台風で倒れた大杉、1000年の御神木は根株が大切に守られていました。

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ゆっくり見学できなかった小国神社も是非とも再訪したい「一宮」の一つです。

 

 

▼2017年に神社入口横に昔町を装った「小國ことまち横丁」が出来ています。

 お土産を漁ったり、一休みするには最適かもしれません。

 

桐生賀茂神社の御朱印(群馬・桐生市)〜街中では体現できない ミステリアスな神域が拡がる

桐生 賀茂神社御朱印

りう かも じんじゃ主祭神賀茂別雷神群馬県桐生市広沢町6-833)

f:id:wave0131:20220414134106j:plain中央に「賀茂神璽」の印が、

右下には「桐生廣澤延喜式賀茂神社」の印が押されています。

中央は通常だと「賀茂神社」となっていることが多いのですが、

当社では「賀茂神璽」となっています。

かもしんじ」と読むのでしょうが、

広辞苑などで調べてみると「神璽」とは「皇位のしるし」「天子の印」などを意味するようです。

 

御朱印社務所で年配の宮司さんに揮毫いただきました。

「あまり書いたことがないので・・・」とおっしゃりながら対応いただきました。

 

戻された御朱印には朱印帳ページの中央にエンピツで薄く垂直線が書かれていました。

筆文字が曲がらないように中心線を描いたのでしょう。

ワタシたちも時々使う方法に、思わず微笑んでしまいました。

 

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賀茂神社桐生市内に鎮座しますが、市街中心部よりかなり南に位置します。

 

▼国道122号線から南に入って進むと小高い山に向かう道路になりました。

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▼そんな山の麓に「大鳥居」が建ちます。

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「風雨降雪時の参拝は大鳥居の前で・・・」の看板が立っていました。

群馬、桐生の冬は雪が多いのでしょうか。

真冬の桐生では最低気温の平均が氷点下なので雪の日も多いのでしょう。

 

▼大鳥居をくぐると静まり返った静謐な境内の先に社殿が見え、社叢というか、裏山というか深い緑が神域を覆っています。

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街の喧騒もなく、他の参拝者の姿がないせいか、とっても神威を感じさせられました。

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延喜式上野国十二社」の一つに数えられています。

 

創建は不詳ですが、崇神天皇の皇子が山城国の賀茂神を勧請したと伝わりますので、

主祭神は京都の「上賀茂神社」と同じ「賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)」になります。

 

裏山には遺跡や神籠石などがあるそうですから、古くから自然崇拝の対象となっていたのでしょう。

 

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▼提灯の紋は全国にある賀茂神社と同じものなのでしょう。

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写真はないのですが境内は広く、いくつかの境内社の他にあちらこちらに石の祠や意味ありげな石などが点在しています。

▼神楽殿は「神楽社」の額が掲げられていました。隣は神輿庫かもしれません。

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▼当社境内で一番の神秘性を感じずにはいられない、緑の森に埋もれた鳥居と長い石段の先の社。

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ひっそりと隠れるように鎮座する姿は、まるで奥宮のような佇まいですが、

豊機社」という神社でした。

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豊機社」は詳細不明です。

しかし「豊かな機(はた)」または「機(はた)が豊か」としたら、古く奈良時代に起こった桐生の織物に関係のある神社かもしれません。

 

東京の都会的な神社や狭い境内の神社だけを巡っていると、

神社とはこんなものだとイメージ化されてしまう場合もあるかもしれませんが、

都心部の神社とは全く異なる空気を持つ神社に出会った時、神社の起こりと刻んできた時間を改めて肌に感じさせられるに違いありません。

池尻稲荷神社の御朱印(東京・世田谷区)〜「安珍はどこ !?」清姫の声が聞こえますか?

池尻稲荷神社御朱印

いけじり いなり じんじゃ主祭神倉稲魂命(東京都世田谷区池尻2-34-15)

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日付を入れていただた「四 三 二十」の文字以外は、朱印まで全てプリントでした。

当分の間は書置きになるそうです。

 

御朱印社務所でいただきました。社務所の上階は13階建のマンションです。

f:id:wave0131:20220414195856j:plain神社敷地内に建つマンションですので神社所有のマンションなのでしょう。

都心部ならではの神社の光景です。

▼「伏見稲荷大社」と大書きされた看板が掲げられています。

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稲荷講」の文字も見えますが、物理的な形としてはなく形態としての「」は今ひとつ理解しにくいものを持っています。

大雑把に言えば、古くからある伏見稲荷を信仰する集団・行事・会合なのでしょう。

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御朱印は丁寧に対応していただけました。

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▼当社は国道246「玉川通り」沿いに鎮座。「池尻大橋駅」から300mほどです。

神社名は通称で「池尻」という地名を冠しています。

この地域は現在は暗渠化されている小さな川が「目黒川」に合流する地に近く、かつては沼地帯の中に池もあったそうで、そんな池の水が川に流れ込む端っこにあたる事から「池尻」の名称が残っているそうです。

要するに文字通り「いけのしり」だったわけです。

 

▼車で「玉川通り」を渋谷方面からやってくると、三軒茶屋の交差点まで混雑し、渋滞気味になる途中で沢山の奉納提灯が必ず目に入ってきます。

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▼鳥居が正面にしているのは「玉川通り」と、通りの上を覆い尽くす「首都高3号線」。

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堂々とした鳥居ですが、高速の圧迫感と246号の喧騒に落ち着か無くさせられます。

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しかし鳥居をくぐり石段を上がれば、いくらか静かになり落ち着きを取り戻せます。

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▼石段上から「一ノ鳥居」を振り返るとこんな様子になってしまいます。

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▼記念碑は「鎮座三百年」の文字が刻まれていますが、由緒によると360年前の明暦年間に地域の「産土神」として創建されています。

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▼すぐ脇には神輿庫でしょうか、朱色ではなくピンクに近い色が異彩を放っています。

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▼「ニ之鳥居」を過ぎると立派な屋根を構える「手水舎」。

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▼手水舎の水は「薬水の井戸」から汲み上げられているとか。

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由緒によれば、かつては

神の道を信じ勤め、その病気の平癒を心に三度祈念し、神の道の薬として飲みほせば薬力明神の力により病気立ち所に快癒す

と信じられていた霊水だったそうですが、現在は

罪穢れを清める祓いであり、神に供えたものをいただいて霊威(れいい)にあやかる信仰と解すべきです

だそうです。

f:id:wave0131:20220414195956j:plain周囲に飲用水が少なかった時代、旅人や農民の要望に応え、現在も涸れることなく湧き出ているそうです。

▼その手水舎の前に鎮座する「水神社」。

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「水の神様=蛇」が祀られています。

その昔はいかに水が重要であったか、豊富な水を願うことと、豊富な水に感謝する、決して当たり前ではない「水」への思いが各地の水神社となっているのでしょう。

水道に慣らされている現代人も水神社を目にして、水が自由に使えることが決して当たり前でないことを改めて認識すべきかもしれません。

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▼社殿に向かう前に南側にある神社入口に向かってみます。

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▼往時はこちらが表参道だったのでしょう。鳥居前は「大山道」でした。

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▼「かごめかごめ」の像。

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昭和初期から戦前までの子どもたちの遊びの様子が像になっています。

そもそも「かごめかごめ」の歌は誰もが知っているものの不思議な歌詞です。

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だぁ〜れ?

不思議さの解明はまたの機会にしましょう。

 

▼南側入口にも新しい社号標が建ちます。

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▼こちら旧大山道の南側の入口からは車で境内に入れ、数台分のスペースがあります。

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▼南側の参道を進んで左手に見えるのが「清姫稲荷神社」。

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清姫」は仏教説話の「安珍清姫伝説」に由来します。

内容的には、愛した僧侶安珍に裏切られた清姫が蛇に変化して、道成寺の鐘の中に追い詰めた安珍を鐘ごと焼き殺してしまうという恐ろしいもので、

ストーリーとしては面白いので江戸期から芝居などになり、昭和でも映画にされ、他にもアニメや読み物などのモチーフにもなっています。

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しかし神社自体は不詳で、説話の登場人物「清姫」が祀られる訳はなく、御神体は智恵の象徴である「白蛇」と予想されています。
「芸事や学業成就の神」だそうです。

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水神社にも小振りな「マスク狐」が一対置かれていましたが、こちらにはもう少し大きめの「マスク狐」がステキな目つきで迎えてくれます。

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▼額は単に「稲荷大明神」となっています。

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扉の奥から「安珍はどこ〜〜〜!?」と清姫の悲痛な叫びが敏感な人には耳にできるかもしれません。

繰り返しますが「清姫」が祀られている訳ではないそうです。

 

▼順序が逆で境内社から記事を進めてきましたが、やっと「池尻稲荷神社」です。

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大戦の空襲で神社の建物は失われていますので、社殿は昭和の再建からその後に改修が加えられ、現在に至っています。

▼当社の正式名称「稲荷神社」です。

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この神社で「安珍清姫」の名称に出会うとは意外でした。

恋愛感情の裏切りに対する女の情念の凄さを表した物語でもありますが、

現代では、その情念というより執念の表現は女より男の方が荒んでいるのでしょう。

女性たちの方が余程「アキラメ」と「転換」が早いのです。

男たちだけが「清姫はどこだ〜!」とシツコク探し続けているかもしれません。

 

 

wave2017.hatenablog.com

半田稲荷神社の御朱印(東京・葛飾区)〜キツネたちが飛び交う神域に迷いこむ

半田稲荷神社御朱印

はんだ いなり じんじゃ主祭神倉稲魂神(東京都葛飾東金町4-28-22)

御朱印は下の写真の社務所受付で丁寧に対応いただきました。

筆書きは素晴らしい達筆で、朱印も明瞭で読めない文字はありません。

右下のスタンプは「火焔宝珠」と呼ぶそうです。

一つの火焔の宝珠に梵字を配置する寺院の御朱印を見慣れていますので、何となく仏教臭を感じます。

 

常磐線金町駅」から歩きましょう。15分以内には到着します。

かつての水戸街道の宿場は千住新宿松戸と続きます。

その新宿から松戸に移動するには江戸川の渡しを利用することになります。

水戸街道東海道奥州街道についで交通量が多く、江戸幕府を防備する役目として江戸川の渡船場に関所が設けられていたそうで、江戸時代にはすでに賑やかな町だったようです。

しかし、それより遥か前の古墳時代からこの地域には人々の営みがあったそうです。

 

古墳時代の後の飛鳥時代になる711年に「半田稲荷神社」が創建されたと伝わります。

近隣の「葛西神社」が1185年の創建と伝わるので、当社はそれよりかなり前から存在していた古社ということになります。

▼「一ノ鳥居」から参道を進み「手水舎」を過ぎると「ニノ鳥居」です。

玉垣の白さと刻まれた文字の朱色が鮮やか目に飛び込んできます。

 

▼境内の東側にももう一つの入口があります。

▼車での参拝なら、こちらから入ると境内に数台分の駐車スペースがあります。

▼ニノ鳥居脇には大きく新し目の狐像がそれぞれ宝珠と巻物を咥えています。

▼社殿は江戸時代、尾張徳川の願掛け神社として造立されたそうです。

▼社殿の前にも子狐と宝珠を抱えた一対の狐像。

▼改修されつつも200年近い時間を紡いできた均整のとれた拝殿は風格がにじみ出ています。

▼向拝天井の漆喰レリーフ鳳凰が描かれていました。

▼獅子の木鼻も風化されず、しっかり残されています。

古くから麻疹・疱瘡・安産の霊験で知られ、

江戸時代には「願人坊主」という人々の願いを代行するような人物が、江戸市中で面白おかしく当社を宣伝したことから、たくさんの講中が組まれ、江戸の町衆などとともに常に参詣人が絶えなかったと伝わります。

江戸時代の人々は現代の人よりかなり健脚。

江戸の郊外になる当社へも十分日帰りで参詣できたかもしれません。

繁栄を極めた時代は去り、今は落ち着いた境内に時折地元の人が立ち寄る姿が見られ、地元の「おいなりさん」的な様子を見せていました。

▼社殿左手に境内社が鎮座します。

▼雰囲気的にはこちらの方が、より「稲荷社」が感じられ、当社のパワースポット的イメージです。

▼いくつかの鳥居をくぐると、たくさんの狐たちが出迎えてくれます。

▼大小様々な狐の中には朽ちそうな像もあり、当社の最盛期だった江戸時代の奉納なのかもしれません。やはり狐たちが集まると神秘性を増長させます。

▼歓迎を受けたと勝手に解釈したキツネたちの間に迷い込んだ先には、彼らが守る社が鎮座。

▼「白狐殿」と書かれた扁額は「びゃっこでん」の読みでしょう。

▼「白狐殿」の脇に狐塚らしきものが広がっています。

▼狐たちが飛び回っています。

▼石の祠は当然、最盛期の江戸時代からあるものなのでしょう。

▼「白狐殿」の右側にも古い石祠が二つと小さい社が一つ。

何が祀られているのか分かりませんでした。

▼それらの後方に建つ石碑群。

▼当社の繁栄を伝えるものがもう一つあります。

江戸時代の当社の宣伝マンだった「願人坊主」が水垢離を行なった井戸と伝わります。

江戸市中で話題となった「願人坊主」は歌舞伎の演目になっていて、井戸周囲の玉垣には歌舞伎役者の名が刻まれています。

 

春先の陽も一番高くなり、徒歩の江戸市民ならそろそろ市中に戻る時間帯でしょう。

▼今季最後の梅花を見ながら神社を出ます。

 

▼「半田稲荷神社」から直線距離500mもない「葛西神社」の記事。

wave2017.hatenablog.com

 

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