神社の読みは「にのみやじんじゃ」です。
右上の印は「寒川神社之印」、
中央大きな印は「二宮神社之印」の読みで良いと思います。
「寒川神社」は、延喜式に「下総国千葉郡 寒川神社」との記載がありそれが当社であるとしていますが、論社とされているそうです。
論社であっても御朱印には「式内社」や「一宮」などの印を押す神社はありますが、
当社は「式内社」とはせず、少し遠慮深く「寒川神社」としております。
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▼神社へは船橋市の東端に鎮座。JR「津田沼駅」からのバス路線があります。
神社鎮座地の住所は「三山」です。
江戸時代には「御山」「宮山」「深山」などとも表記されていたそうです。
そして、かつての当社神職は「三山姓」を名乗っていたそうです。
▼船橋市の東端とは言え一帯は住宅街。そこにある豊かな森はオアシスのようです。
御朱印の日付は2015年ですが、写真は概ね2020年撮影です。
▼木造の両部鳥居「一ノ鳥居」は、良い景色の中で堂々としています。
▼延喜式記載の寒川神社が、いつから二宮神社になったのか詳細は不明だそうですが、
1303年の鎌倉時代に鋳造された鐘には「二宮社」と刻まれているそうです。
また、写真はありませんが、神社の東に江戸時代に建てられた「延喜式内 寒川神社 二宮大明神」と彫られた道標が建ちます。
そのような現実から延喜式の「下総国千葉郡 寒川神社」は当社が有力視されているのでしょう。
▼「一ノ鳥居」の先の参道は一旦下りになって谷底に降りる感じです。
▼参道途中に水路があり、かつてはこの小川が「サムカハ」と呼ばれていたという説もあるそうです。
「御手洗之泉(みたらしのいけ)」から流れる水が同じ千葉の習志野市の「菊多神社」の池に注いでいると伝わっています。
▼下った参道は再び登りになり境内に導かれます。
▼「ニノ鳥居」に「拝殿」、そして銀杏の御神木を見上げながら石段を登ります。
▼この写真は2020年9月。御神木の銀杏に、まだ葉が残っています。
▼境内に上がって、2020年の狛犬はマスクではなく、イエローの「前掛け」。
▼黄色い前掛けがブサカワ度を高めています。
▼手水社には柄杓が健在でした。
▼寺社で若い家族の姿を見かけると、なぜか暖かい気持ちになります。
▼拝殿前の狛犬はマスクも前掛けも、何も身につけていません。ワクチン接種済みかもしれません。
ニノ鳥居下の「前掛け狛犬」よりこちらの方が少し新しそうです。
▼唐破風造りの拝殿は、江戸時代の安永年間の再建。
その後も手を加えられながら現存していますが、やはり長い時の流れも感じさせられ趣のある佇まいです。
▼装飾彫刻も拝殿や本殿の随所に見られます。
延喜式記載の神社だとすると創建は1200年前ということにになります。
祭神は「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」「櫛稲田比売命(くしなだひめのみこと)」「大国主命(おおくにぬしのみこと)」。
▼相殿に祀られているのが「藤原時平」という人物。
伝承によると「藤原時平」を祀ったのは時平の子孫で、
1180年、京都から下総に左遷された「藤原師経」という人物。
そして「藤原時平」は、誰もが知る菅原道真を太宰府に追いやり、都を脅かす怨霊とさせた政敵だったのです。
ですので、天神様の道真を崇敬する人たちは当社には参拝しなかったそうです。
情報の少ない中での当時の人たちの潔癖性を非難することはできません。
むしろ、当時の人たちの眼からすれば、政敵である双方の御朱印を求める人間こそ、
そこに疑問を抱かない方が「オカシー」と見られているかもしれません。
自身では確かなことを築けず、迷い続けることばかりの2021年。
引いた「おみくじ」の結果を一緒に笑い、一緒に結びつける事ができる相手が側にいるだけで恵まれていることを理解しましょう。
さまざまな思いを抱きさせられながら境内を見回しましたが、
珍しく、当社には境内社を見つけられませんでした。
▼境内を出ます。
▼再び下ります。
▼「ヨソミ」してると、再び、上がって、登って、高みに出ることはできません。
▼それでも白い迷い道は無限の可能性を見せています。
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