生國魂神社の御朱印
「いくくにたま じんじゃ」主祭神:生島大神・足島大神(大阪市天王寺区生玉町13-9)
干支御朱印も「お書きします」と案内されたので見開きで記帳いただきました。
「いくくにたま」と読むには難しい3文字です。
東京に「大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)」がありますので、
参拝歴のある人は何となく読みの想像がつくかもしれません。
「難波大社」は「なにわのおおやしろ」と読み当社の別称で、
通称では「いくたまさん」と呼ばれているそうです。
▼御朱印は拝殿左隣の授与所で。
▼「生國魂神社」の鎮座地住所は「生玉町(いくたまちょう)」。
明治期に「生玉町」の町名が定められたそうですが、
もちろん「生國魂神社」の関連から付けられたのでしょう。
▼やはり「いくくにたま」では舌を噛みそうで言いにくく、語呂も悪いので「いくたまさん」なのでしょう。
それとも「生玉町」に鎮座するところから「生玉(いくたま)さん」と呼ばれるのが正しいのかもしれません。
「生國魂社」の名称は日本書紀に見られるそうなので詳細な創建は全く不明。
▼正面の「大鳥居」から見る神社は清々しさでイッパイです。
元々は大阪城のある地に鎮座していたそうですが、大阪城築城の際に現在地に遷座させられています。
大阪城築城にあたっては多くの寺社が移転させられたのでしょう。
そして、それらの多くは等しく戦時中の空襲で全焼する運命を同じくしています。
▼新し目の「手水舎」の龍の吐水口は、見慣れたおなじみの光景となっています。
▼広々とした境内は、前日の嵐がウソのような陽光に満たされていました。
▼コンクリート造りの「拝殿」の後方に建つ本殿は、神社建築では他にない「生國魂造」様式だそうですが、まったく見えません。
▼写真をお借りしましたが、見たこともない造りです。(▼写真は「OSAKA INFO」)
境内を回り込んでも、どこからもこの姿は見ることができませんでした。
主祭神の「生島神(いくしまのかみ)」「足島神(たるしまのかみ)」は、万物を生み育て生命力を与える神と、国中を満ち足らしめる神だそうです。
この神を祀る神社を多くは知りませんが、
長野上田市の「生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)」は、そのままの名称となっているので思い出させられました。
▼境内の北の雰囲気の良い場所に鎮座するのは「天満宮」「住吉神社」「皇大神宮」。
三社が並ぶこの一画は、とっても気持ちの良い風が流れていました。
▼その三社が建つ場所のさらに奥は森になっていました。進んでみます。
▼「八兵衛大明神」の幟が・・・。
居酒屋などの名称で見かけるような「八兵衛」ですが・・・。
「八兵衛」さんは大阪ミナミの道頓堀・中座に芸能の神として祀られていたものを、中座の閉館によりここに遷座されたそうです。
さらに杜の奥に進むと少し低いところにちょっと空気感の違う区域がありました。
▼石段を下がって振り返った鳥居です。
どうやらこの一画が「いくたまさん」の核心的区域のようです。
ここに足を踏み入れなければ、生國魂神社の良さがわからなかったでしょう。
▼奥から「浄瑠璃神社」「家造祖神社」「鞴神社」が並び、どれも立派な造りです。
どれもそれぞれに鳥居が建ち、
▼左端の「城方向八幡宮(きたむきはちまんぐう)」の手前にはもう一つの鳥居が。
▼まだまだ境内社が鎮座し、こちらは「精鎮社」。
緑の網で覆われているのは池のようです。弁財天なのでしょうか?
▼こちらは「稲荷神社」「源九郎稲荷神社」と「鴫野神社」。
▼「鴫野神社(しぎのじんじゃ)」はと縁結びのご利益があるとかで女性の姿が多く見られました。
提灯は「心に錠前」? 「縁結び・縁切り」のご利益だそうですが意味深長です。
▼どの社も朱色の覆屋に守られ、この一画もとても雰囲気良く気持ち良い空間でした。
▼「夫婦善哉」の作者「織田作之助」は、当社の東になる「生玉前町」の仕出屋で生まれたそうです。
▼北側にある出入口から出て神社を後にしました。
有名な神社をいくつも巡った今回の大阪でしたが、
10以上の境内社が集まる一画を持つ生國魂神社も記憶に残る神社となりました。
▼名称が似ている「大國魂神社」の記事。