「たかだ ひかわ じんじゃ」主祭神:素戔嗚尊(東京都豊島区高田2-2-18)
正式名称は単に「氷川神社」ですが、
「たかだひかわじんじゃ」の通称で呼ばれています。
2021年は以下「3体セット」の御朱印をいただきました。
目白豊坂稲荷神社は、JR「目白駅」近くに鎮座します。
▼高田氷川神社の御朱印。2015年は直書きいただいています。
「山吹の里 氷川宮」とあるのは、由緒によると
「古来、山吹の里氷川宮、後 氷川大明神と奉称された」だそうです。
また太田道灌にまつわる「山吹の里伝説」を wiki から要約引用します。
道灌が父を訪ねて越生の地に来た。突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄った。その時、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。道灌は、蓑を借りようとしたのに花を出され内心腹立たしかった。
この話を家臣にしたところ、それは『後拾遺和歌集』の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、山間の茅葺きの家であり貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。
引用では「越生の地」とされていますが、新宿区山吹町も伝説の地に比定されているそうです。
▼2021年11月現在は、すべて書き置きのみの案内となっていました。
▼東京都神社庁発行の「生命の言葉」の短冊も頂戴しました。
事を成し遂げた人の言葉は重い!ですね。
▼高田氷川神社へは都電荒川線の「面影橋駅」「学習院下駅」の利用が便利です。
▼以下3枚の写真は2015年夕方参拝時の写真で。2021年現在と全く変わりありません。
2015年当時から「撮影・ペット・喫煙・自転車等の乗入れ禁止」の案内が出されていました。
▼従って、鳥居付近から望遠での撮影となった本殿です。
▼改めて2021年の訪問ですが、禁止事項は解けていませんでした。
従ってほとんどの写真は玉垣の外からの撮影です。
江戸時代の奉納による狛犬は阿形の頭が失われています。
▼表参道になる、こちらの石造りの鳥居は江戸時代、寛政年間の造立だそうです。
当初は「氷川宮」「氷川大明神」と呼ばれていた神社の創建は、貞観年間(859~877年)に大宮氷川神社から勧請されたと伝わります。
▼境内は完璧な整備で、チリひとつなく気持ちの良い清浄さが保たれていました。
高田氷川神社の「境内撮影禁止」、実は「無断撮影禁止」と案内されています。
そこで今回、御朱印をいただく時にその事情をお聞きしてみました。
その内容は予想通りで、要約すると
「撮影者のマナーの悪さと、細かいところまで撮影して思いもよらぬネガティブな言葉を発表される」のが理由だそうです。
そこで
「そ〜〜っと、2〜3枚だけ撮影してよろしいでしょうか?」とお聞きしてみました。
対応していただいた女性は言葉では肯定も否定もされず、少し困ったような表情でうなづいていただきました。
▼以下境内の写真は「無断撮影」ではなく、一応許可いただいたと都合よく判断したものです。
▼「御神木」と後方は「神明神社」。
▼拝殿の建立年は分かりませんが、こちらも江戸時代の建物かもしれません。
高田氷川神社から西に直線距離で1.4kmほどの下落合にある「氷川神社」は奇稲田姫を祀ることから
高田氷川を「男体の宮」、下落合氷川を「女体の宮」と呼び、両社を合わせて「夫婦の宮」とされているそうです。
▼本殿は覆屋で保護されています。内部の撮影は遠慮しました。
以上5枚の写真は、一応お断りしての撮影とします。
もし対応いただいた女性との撮影に関する意思疎通が間違っていたとしたらお詫び申し上げます。
▼境内奥、西側にある入口と鳥居です。
こちらにも撮影禁止の案内がありますが、
神社の清浄さを穢さず、常識的なマナーをもって数枚の写真撮影ならば「お許し」いただけるのではと思います。
ぜひ、その許可を得てからの撮影としましょう。
境内を出ると
▼神社の北側は「宿坂通り」となっていて、かつては「宿坂の関(しゅくさかのせき)」と呼ばれていたそうです。
▼江戸三十三観音の「金乗院」と「宿坂」が描かれている江戸名所図会。
ほぼ「神田川」沿いの低地にある神社の北側は台地になっていて
「目白通り」方面にに抜ける道はどこも急坂となります。
▼中でも「のぞき坂」別名「胸突坂」は、都内でも車が通行できる最も急な坂。
最大勾配29%と言われる坂を抜けるときは「エンスト」に注意です。
と言ってもオートマ車の場合は「エンスト」はないでしょうが、力のない軽カーでは登り切れないかもしれません。
完璧な清浄さが保たれている境内は緊張感さえ漂っていた高田氷川神社でした。