奥澤神社の御朱印
「おくさわ じんじゃ」(東京都世田谷区奥沢5-22-1)
パッと見、当初は「奥澤」と読めず、「真深」と読んでしまいました。
8年間で直書きと書置きの差だけで、全く変化のない二体です。
言うまでもありませんが、300円から500円になった事は変化です。
2022年の書置きはプリントではなく、スタンプと墨書きの混合タイプでした。
▼奥澤神社の御朱印(2022年)。令和「壬寅(みずのえとら)」は令和四年。
▼奥澤神社の御朱印(2014年)。平成「甲午(きのえうま)」は平成二十六年。
▼注意書きがビッシリでした。
またご用の方は「魚板」をたたいてくださいとの案内が出ています。
「魚板」は法具のひとつで、神社では珍しい事です。
「開梆(かいぱん)」「魚梆(ぎょほう)」「魚鼓(ぎょこ)」とも呼ばれ、渡来した隠元が伝えたとされ、禅寺などでは時間を知らせるのに使用されています。
また「木魚(もくぎょ)」の原型とも言われています。
奥澤神社で使用されているのは神仏分離前の名残りかもしれません。
▼目黒線「奥沢駅」から徒歩2、3分。「自由が丘駅」からですと4、5分でしょう。
境内に駐車できるスペースはありません。
▼「自由通り」に面して「社号標」と「鳥居」が建ちます。
▼鳥居には「太い縄」が巻きつけられています。
▼「太い縄」を正面から見ると藁で作られた「大蛇」でした。
毎年、奥澤神社の例大祭で行われる、江戸時代から続く厄除けの「大蛇お練り行事」に使用されたものが鳥居に取り付けられているようです。
▼しかし2022年の訪問時は鳥居に大蛇はありませんでした。
前年の2021年例大祭「大蛇お練り行事」は中止されたそうです。
藁で造られた大蛇ですので風雨に曝されれば朽ちてしまうでしょうから、外されたのでしょう。
▼正面鳥居の脇道にもう一つの入口にも鳥居が設けられています。
やはり注意書きが目立ちます。
▼正面鳥居の陰に「品川みち」と「めくろみち」の道標べが隠れていました。
▼正面の参道に入ると直ぐに一対の狛犬と、その先に「手水舎」が見えます。
▼筋骨隆々、勇ましくも現代的な姿は比較的新しい造立なのでしょう。
▼手水舎脇に神社の概要がわかりやすく説明されています。
▼手水舎から90°右に向くと社殿正面となっています。
創建年代は不明ですが、社伝では室町時代に入って吉良氏家臣の大平氏が奥沢城を築くにあたり、世田谷郷東部の守護神として「八幡神」を勧請したものと伝えています。
したがって当初は「八幡社」「八幡神社」と呼ばれ、明治になって近隣の稲荷社が合祀され現在の「奥澤神社」と改められたそうです。
当初は八幡さまでしたので主祭神は「誉田別命(応神天皇)」です。
神社周辺は住宅街と商店が密集する地域ですが、境内いっぱいに広がる豊富な木々がオアシスのごとく安らぎを与えてくれます。
昭和時代に再建された社殿ですが、その前に本殿が2度にわたり「九品仏 浄真寺」に移築されて「観音堂」などとして改修されているそうです。
なにやら「浄真寺」と特別な関係があるように想像させられます。
▼社殿の周囲は水が張られています。
あまり見かけないスタイルですが、やはり邪気を寄せ付けない結界の役割なのでしょう。
▼境内を見て回ります。龍の頭が埋め込まれた塚は何なのか不明。
▼地蔵さんもいらっしゃいます。別当寺だった「密蔵院」の名残りのようです。
▼「庚申塔」や「南無大師遍照金剛」と刻まれた石塔は古いものに違いありません。
▼振り向くと「べんてん道」の標。
▼大きな木々に覆われた「べんてん道」を進んでみましょう。
▼ほぼ「自由が丘」という地とは思われないような緑の中を進むと「奥沢弁財天社」です。
▼とっても雰囲気良く造られた石山と洞窟内に弁財天が祀られています。
元々は近くにあった湧水池が「奥沢弁天池」の名で呼ばれ、池の主の白蛇が奥沢の田畑に水の恵みを与えていたと伝わり、昭和になって移転してきたものだそうです。
▼刻まれている文字「弁才天女」が輝き、艶かしさも感じます。
▼「八幡神社」の文字が何とか読めます。鳥居につけられていた扁額なのでしょう。
▼幕末から明治にかけて、後の八幡小学校となった学びの寮が当社で開かれていたそうです。
▼「神楽殿」もそれほど古くはないでしょうが、とっても良い姿をしています。
▼地域開発記念碑が石灯籠とともに緑に埋もれています。
高い木々を見上げていると、やはり自由が丘に近い地域とは思われません。
しかし、もう少し都心に近く、山手線内や周辺に鎮座していたとしたら、土地や木々はマンションなどにその座を譲っていた事でしょう。
もちろん地域性のみならず住民の崇敬の深さもそれらを守ってきた一因なのでしょう。
▼「自由が丘駅」を挟んで当社から直線距離600mもなく、授与される御朱印も対照的な「熊野神社」の記事。