▼東叡山 寛永寺 護国院の御朱印。(天台宗/東京都台東区上野公園10-18)
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▼東覚寺→青雲寺→修正院→天王寺→長安寺→10分ほどで護国院です。
谷中の寺町を抜けて住宅街を南に歩くと、だいぶ上野公園に近くなります。
▼交差点角に東京芸大の建物を背負って護国院はあります。
寛永寺の子院である護国院は、無住ではないと思いますが、
普段は参拝者も寺側も人の気配を感じさせないない物静かな寺ですが、正月には様相が一変します。
家光を開基とする東叡山 寛永寺は江戸時代には強大な権勢を誇っていましたが、
幕末の動乱期に主な伽藍を焼失しています。
上野の山がすべて寛永寺の伽藍で覆われていた姿はまさに「東の比叡山」だったのでしょうが残念なことです。
護国院も当初は、壮麗を極めて建てられた草創期の東叡山において最大の建築物「釈迦堂」の別当寺でした。
「釈迦堂」は根本中堂ができる前までは寛永寺本堂としての役目を担っていたそうです。
しかしその「釈迦堂」も焼失、再建されたものが昭和に入ってから現在地に移転され、同時に護国院の本堂とされています。
そんなことから「東叡山 釈迦堂」とも呼ばれる護国院です。
どの寺も大火や兵火、幕府の命令などで再建、移転を繰り返すことを余儀なくされた歴史を持っています。
多くの場合、境内地も学校などの公共用地として譲渡しなければならない時代もあり、護国院の大半の境内も、現在は上野高校となっています。
▼釈迦三尊像を本尊とする本堂は寛永寺の中でも最古の建物です。
護国院の大黒天は、三代将軍家光より大黒天の画像が寄贈されたことから、
「護國院大黒天」として信仰を集めるようになり、谷中七福神の大黒天へとつながっています。
▼大正時代の奉納額は大きく、金箔が施され当時の大黒天信仰の篤さが伺えます。
▼寺を囲む玉垣にも見知った名前が多く刻まれています。
▼堂内に安置されてる大黒天像は、若く伏し目がちな姿が印象的です。
▼境内にあった礎石らしいものですが正体不明です。
▼本堂脇の庫裏を覗いてみます。
1階部分は1927年竣工、歌舞伎座などを手がけた岡田信一郎設計の和風建築だそうですが、カメラが変です。ヨコ線が入ってしまっています。
▼この案内とは逆に回ってきた谷中七福神のゴール「不忍池 弁財天」に向かいます。