東叡山 寛永寺 開山堂(両大師)の御朱印
「かんえいじ かいさんどう(りょうだいし)」天台宗(東京都台東区上野公園14-14)
▼御朱印は本堂内の右手受付でいただきました。
かつては「両大師」の御朱印しかありませんでしたが、
2021年には「慈恵大師」「慈眼大師」の御朱印もいただけるようになっていました。
▼開山堂は上野公園の東外れにあり、JR「上野駅 公園口」からすぐです。
▼すっかり整備され綺麗になった上野駅公園口前の広場です。
以前は上野山下の中央通りから公園通り経由でここまで車で進入できましたが、
▼現在は公園の北側からしか進めないロータリーになってしまいました。
渋谷、新宿ほどの勢いではない変化ですが、上野も少しずつ様子を変えています。
▼公園口から北に向かうと広い通りの向こうに見える大きな門は「寛永寺旧本坊表門」。1868年、上野戦争で焼失された寛永寺ですが、旧本坊表門だけは残りました。
▼その表門の左手に開山堂、両大師の「山門」が構えられています。
この寺の正式名称はよくわかりません。
開山堂は寛永寺の伽藍の一部でしょうが、wiki では輪王寺としても紹介され、別名や通称では慈眼堂、両大師堂とも呼ばれています。
両大師とは慈恵大師と慈眼大師を示し、
慈恵大師(じえだいし)=元三大師=良源=比叡山延暦寺中興の祖です。
元三大師は角大師・豆大師・厄除け大師などとも呼ばれます。
寺の名称も僧の名前もそれぞれ別名・通称がいくつもあって、頭の中は大混乱です。
さらにややこしくさせるのは御朱印に書かれている「上野 輪王寺門跡」の文字です。
「門跡」はご存知、皇族・公家が住職を務める寺を表します。
輪王寺門跡=輪王寺宮門跡=輪王寺宮=天台座主、寛永寺貫首、日光山主です。
と、表してもまったく理解不能かもしれません。
いずれにしても「輪王寺」は、宮様個人の称号で、寺号ではないのです。
江戸時代前期に始まって幕末まで皇族が代々の輪王寺宮になるべく、関東に下向している事になります。
▼幕末の最後の輪王寺宮(北白川宮能久親王)については、上野戦争から逃避行する宮を描いた吉村昭の小説「彰義隊」に詳しく知ることができます。
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▼山門をくぐるとすぐ左に「地蔵堂」。
二体の地蔵像が祀られています。
▼その反対側は「阿弥陀堂」。新らしそうな造りです。
阿弥陀如来、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩の三体がいらっしゃいました。
▼少し離れたところに「鐘楼」。
▼参道から少し下がったところに「手水舎」です。
手前にはかなり古そうな水盤も置かれていました。
▼満々と水を湛えています。
▼本堂は上野戦争でも残ったものの、後に別な火災で焼失して、1993年に再建。
寛永寺の諸堂のうち、清水観音堂や不忍池弁天堂・大黒堂は多くの訪問者が絶えませんが、ここはいつ訪れても参拝者は少なく静かな境内です。
堂内は撮影禁止。
▼外からの撮影で一体の仏像だけパチリ!
▼季節の良い時期は参拝者も多い。ここに若い人は珍しい。
▼「寝釈迦石」はお釈迦様が寝ていた跡なのでしょうか?
▼境内を東に出て振り返った絵です。
▼この門は、谷中にあった幸田露伴の旧宅から移築されたもの。
▼露伴の門を出ると、来るときに見た旧本坊の表門を内側から見ることになります。
▼そして広い駐車場と、その奥は「輪王殿」。