安国山 五智国分寺の御朱印
「ごち こくぶんじ」天台宗(新潟県上越市五智3-20-21)
御朱印の墨書きには「越後国分寺」となっていますが、いわゆる後継寺院としての国分寺です。
「五智如来」を本尊とするので「五智国分寺」として知られています。
御朱印は本堂内でいただきました。
▼国分寺の所在地地名は「五智」。そして南に隣接する地域は「国府」。
奈良時代から平安時代には国庁が置かれた越後の都市だったのでしょう。
現在の後継国分寺は1562年に上杉謙信により現在地に移転・再興されたと伝わります。
移転前の国分寺がどこにあったのかは、はっきりしていません。
しかし、この地域だったことは間違いないのでしょう。
▼車載のナビに導かれたのは裏参道のようでした。
初めはそうとは気付かず、国分寺は大きな寺と知っていたので、小ぶりな山門を意外に感じました。
▼境内に入ってから裏から進入したことに気づき、表参道の途中まで行き、戻る形で境内に入りました。
当初の創建地が明確になっていないので創建年も定かではありません。
でも聖武天皇により全国に国分寺建立が発令されているので奈良時代です。
その後の律令体制の弛緩により財政支持ができなくなると、
しかし、中世以後も相当数の国分寺が、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続け、後継寺院となっているようです。
神社とは少し異なるように感じるのは、寺院の盛衰がはっきりしていることです。
そこに中興の師が何度も現れる寺院もあります。
財政支援を得られなくなって廃れた寺院を春日山の主人、謙信が再興したのでしょう。
上杉景勝らの崇敬も篤かったそうです。
しかし、再興されたものの多くの地域の社寺と同様、何度も火災に見舞われています。
当然本堂も焼失され、現存する本堂は平成に入って建立されています。
▼本堂内の五智如来は撮影可だったかもしれません。(▼写真は「五智国分寺」から拝借)
大きさは丈六、一丈六尺(約4.85m)の半分、半丈六(四尺五寸)だそうです。
▼焼失された堂宇の中でも三重塔は少し古くの再建で、1865年に棟上げされていますが、高欄等は未完成だそうです。
▼複雑な組物が美しい塔は、素人目には未完成部分がわかりません。
▼1207年「承元の法難(じょうげんのほうなん)」により、35歳の親鸞は京都を追われこの地に流罪となっています。
そして居多ケ浜に上陸後「一宮 居多神社」を最初に参拝しています。
そして国分寺境内の竹林内に草庵を結び、42歳までの7年間、親鸞の人生の中でもっとも苦しい時期を過ごしています。
謙信による再興前のことなので、国分寺も草庵も正確な位置は分っていません。
草庵は「竹之内草庵」と呼ばれて現在の国分寺内にありますが、
▼そこから親鸞にとって二つ目の配所である「竹ヶ前草庵(たけがはなそうあん)」へ移されています。
親鸞が罪を赦され東国布教へと旅立った後、
▼約600年の時を経て参拝者のために本堂が建立されています。
▼越後に色濃く足跡を残している親鸞です。
「旅のハジはカキ捨て」とピンポンするものの反応なしでした。
結局、ここでは御朱印はいただけませんでしたが、
目的の五智国分寺ではいただけています。
五智に教えられた焦らぬ「ボチ ボチ」でした。