南御堂の御朱印
「みなみみどう」浄土真宗(大阪市中央区久太郎町4-1-11)
「南御堂」は通称で「真宗大谷派難波別院」が正式名称。
「遠慶宿縁」と書かれたリーフもいただきました。
説明にある通り親鸞の言葉で「遠く宿縁を慶べ」という意味。
▼南御堂の御朱印です。
▼本堂内の左側の受付でいただきました。
若い僧侶さんに恐縮するくらい大変丁寧な対応いただきました。
一般的には「浄土真宗」の寺院では御朱印授与はない、と半ば常識のように理解されていることが多いと思います。
事実、京都の本山「真宗大谷派東本願寺」いわゆる「お東さん」のHPには
「朱印をしない理由」が2022年現在も掲載されています。
しかし今回、同じ「真宗大谷派」ですが「難波別院」では御朱印をいただけました。
東京でも浅草の「東本願寺」や、麻布「善福寺」でも御朱印授与がなされています。
古く遡って江戸時代から近年までは、京都東本願寺などの真宗寺院でも御朱印を授与されていたそうです。
同じ親鸞を宗祖とする「浄土真宗」と一口に言っても「真宗十派」のほか多くの諸派が存在しますが、
その「派」ごとの考えなどの違いは難しく分かりませんし、
街中の個々の寺院がどの「派」に属しているのかも分かりづらいものです。
御朱印授与についても「派」ごと、あるいは寺院ごとに考えが違うのでしょう。
親鸞の「遠く宿縁を慶べ」という言葉のとおりに、
御朱印授与も何ら抵抗を覚えず、進んで授与する寺院もあるようです。
ですので、御朱印収集者の間で一般常識的になってしまっている
間違いと言えるかもしれません。
▼難波神社から北へ直ぐのところに「南御堂」はありました。
通称である「南御堂」ですが、もう少し北に同じ真宗の「北御堂」があります。
この二つの「御堂」の前を通る道ということで「御堂筋」と名付けられたそうです。
▼google mapを頼りに歩いても、寺の山門らしき姿は現れません。
▼見上げても大きなホテルかオフィスビルとしか思えませんでした。
▼見回すと、ビルの下の通り抜け部分に「難波別院」の案内ボードがありました。
▼巨大なビル下をくり抜かれて「門」というか「入口」になっていました。
▼山門?天井です。もちろん龍はいません!
▼境内内側から見た巨大な「山門?」は、まるで要塞です。
やはり上部はホテルになっていて、
「御堂会館」として寺側の集会などで利用する施設も併設されているようです。
こんな姿の寺入口は見たことなくオドロキというよりタマゲました。
▼入口から正面に見えるのが「本堂」でしょう。
当院は秀吉の土地寄進により1959年に開創されています。
他の寺社に多くみられるように大阪城築城の際、現在地に移っています。
その後、本願寺は京都へ移転、その跡地に難波別院が造営されています。
▼戦火に会う前の戦前の本堂の姿を「wiki」で見つけました。
やはり広い境内と大きな本堂が見えますが、いかにも「寺」という雰囲気を感じるのは松などの木々のせいかもしれません。
▼現在は本堂の他に寺院らしい建物は右手に「手水舎」と、左手に「鐘楼」が見えるだけです。
▼ダダァーーと広く、大きな木は1本もない境内から本堂に入ってみます。
▼本堂前で参拝者を迎えているのは「ブットンくん」。
「仏(ブツ)」と「豚(トン)」が合体した名称だそうです。
▼内部では個人的な供養が行われている様子でした。
正面は阿弥陀如来でしょうか?
▼おジャマしないように片隅から手を合わせます。
▼本堂左横に寺らしき景色を見せるエリアがあり、もう一つの梵鐘です。
▼小じんまりとした庭が造られていて芭蕉の句碑などが建ちます。
▼「旅に病で ゆめは枯野を かけまはる」大阪で亡くなった芭蕉最後の句だそうです。
▼どこかで見覚えのある像ですが、思い出せません。
▼「大阪城はもともとお寺だった!?」
信長が攻めあぐねた石山本願寺。その具体的な寺の姿は分かりませんが、
「南御堂」も難攻不落の要塞のような寺院でした。