▼万年山 大泉寺の御朱印です。(曹洞宗/山梨県甲府市古府中町5015)
寺の名前は音読みで「だいせんじ」です。
御朱印は日付のない書置きでしたが、よく見ると
「平成十二年 月 日」となっています。
「んっ?」と訝しんでも、間違いなく「十二」でした。
平成12年というと2000年です。
収集を始めて、当ブログが初めて手にした御朱印の日付は2011年。
そして大泉寺を訪問したのが2013年で、平成25年になります。
間違ったのではなく、おそらく日付通りの古い書置きだったかもしれません。
もし、そうだとすると平成12年と25年で、13年前の書置きという事になります。
いくつも御朱印をいただいていると、いろんな事があります。
今回は何とも複雑な気持ちにさせられた御朱印でした。
▼御朱印と一緒に8枚セットのポストカードをいただきました。
▼そのうちの1枚は異形の入道とも言える顔立ちの肖像画。信玄の父親、武田信虎です。
▼大泉寺は有名な武田神社から1〜1.3kmくらい南にある低山の麓にあります。
車ですと甲府駅の北側にあたる武田の城下町は、それほど交通量も多くなく、とても走りやすい道路が続いています。
ちなみに「甲府」という地名は「甲斐の国の府中」という意味だそうです。
「府中」は国府や守護所などの政庁所在地を言います。
▼総門後方に低い大笠山を従えていますが、寺の山号は「萬年山」。
珍しい形の総門は、武田神社近くの山梨県護国神社の場所にあった柳沢氏創建の永慶寺から移築された門です。
▼総門からは趣のある気持ちの良い参道がまっすぐ伸びています。
秋の参道は紅葉で赤く染まるそうです。
大泉寺は元々は同じ山梨県内の巨摩郡にあった「大川寺」を、甲府開創、武田氏の城下町の発展とともに1519年に現在地に移築されています。
「大川寺」が「大泉寺」となり、「川」が「泉」になったという訳です。
武田信虎の創建ということになりますが、武田家の菩提寺でもあり、
1574年、信濃高遠で81歳という長寿で亡くなった信虎の葬儀はこの寺で行われ、遺骸も埋葬されているそうです。
慌ただしく本堂に参拝して信虎の廟所に向かいます。
▼扁額は「御廟殿」。「武田信虎公之墓」と看板が掲げられています。
▼門をくぐって、こちらが廟所になり「風林火山」の軍配が飾られています。
▼廟の後方に回り込むと「信虎の墓」があります。
墓は3基並んでおり、信玄、勝頼を両脇にして中央が武田信虎の墓だそうです。
▼「御廟殿」の内部は信玄・信虎・勝頼の像が祀られ、その下の地袋の扉を開けるとそれぞれの墓が見えるそうです。(photo=ポストカード)
信玄の墓は複数あり、勝頼の墓も景徳院が有名でしょうか。
信虎の場合はここ大泉寺が正式な墓所のようです。
武田三代が400年の長い時間をここで眠っているということです。
武田氏の基盤を築いたのは信虎です。
しかし後に親子不仲説などの理由によって信玄の手により駿河へ追放されています。
最後は信濃高遠で死去しています。
実の息子から追放されるという大事件ではあるものの、
甲斐の領民たちは喜んだと言われているほどで、信虎はしばしば「暴君」として語られています。
「甲陽軍鑑」にも、信虎を諌める重臣たちを手打ちにするといった逸話も残っているそうですが、他の資料に暴君ぶりを示すものは見つからないそうです。
「甲陽軍鑑」は後に都合よくまとめられた記録なので、当然のこと全てを真実として捉えることはできません。
Blog冒頭に掲載した信虎像は異形ですが、
▼再放送で見たNHK大河「武田信玄」の信虎役は、2016年に亡くなった平幹二朗。
見事な暴君役を演じていました。
肖像画より平幹二朗の方がピンとくる信虎像ですが、書や画より映像の影響力の大きさに驚き、振り回されるのは、恐ろしいことでもあります。
▼武田氏関連記事です。