臨済宗ならではの釈迦牟尼佛の御朱印は、2013年の日付ですが、非常に整った墨書きと朱印のバランスに、当時は見入って感動しました。
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▼栖雲寺へは車ですと国道20号線の「景徳院入口」から山側へ入ります。すぐ現れる景徳院からさらに4kmほど山奥になります。
バスですと「甲斐大和駅」から23分です。
甲府盆地のはずれ、東の山奥に進み、天目山を背に栖雲寺は建ちます。ほとんど東京都との境にある寺の先を進むと大菩薩峠になり、さらにその先は奥多摩湖に繋がります。
栖雲寺を訪問する方はほとんどがその前に景徳院を訪れるはずです。
その景徳院の先に栖雲寺へ続く2.4kmほどの遊歩道「竜門峡」入り口があります。
▼清流と新緑、紅葉が楽しめるコースは1時間半ほどで栖雲寺に着きます。
しかし、御朱印目的で寺社巡りをされる方で、景勝地でありながら途中にハイキングを加えるなんて悠長な方はいないでしょう。
車で日川渓谷を左に見ながらの県道をドンドン進み高度を上げていきます。
▼目的地の栖雲寺の標高は1000mを超えています。
山梨の寺社の多くが甲斐武田氏と深い縁がありますが、南北朝時代の1348年創建のここ栖雲寺も武田氏が滅亡するまでは菩提寺として大いに繁栄したそうです。
平安時代から続いた甲斐武田氏ですが、第20代当主武田勝頼は織田徳川軍に追われ、逃げ場を失って、武田氏と縁の深いここ栖雲寺を目指します。
しかし栖雲寺まではたどり着けず、手前の景徳院のある田野で1582年に自害しています。
▼勝頼を遡ること7代、第13代武田氏当主武田信満も1417年にこの地で自害しています。
▼栖雲寺はそんな武田氏の悲劇の地でもありますが、「蕎麦切発祥の地」とも伝わります。
▼蕎麦はかなり古くから食用にされていますが、もともとは痩せた土地の貧しい食べ物の雑穀で、当初は蕎麦の実をそのまま食べ、またおかゆなどのようにして食べていたものが、やがて粉にして団子のように練ったもの「そばがき」として食べるようになりました。
さらに時代が進んで江戸時代が始まる前後頃になると、やっとワタシたちが知る麺になった蕎麦「そばきり」が食べられるようになりました。
したがって「そばきり」の歴史は400年そこそこですが、そばが食用になったのは奈良時代以前だそうですので、「そばきり」という麺になるまでは800年以上を要した事になります。
▼栖雲寺は「蕎麦切発祥の地」の可能性として、次のように解説しています。
「開山の業海は大陸からの帰国土産として蕎麦麺を伝えた可能性は十分にあります。
そして当山に参じた雲水と共に蕎麦切を食しながら、隠遁生活を極めた中峰明本の教えを守り、この地で修行をしていたのでしょう。」
何れにしても栖雲寺では早くから「そばきり」として食されていたことは間違いないのでしょう。
米、麦の出来ない痩せた土地の雑穀は1500年を経て現在のステータスを獲得しました。
蕎麦は冷たい蕎麦でなければその味は分からないと思っていますが、「もりそば」も安い店では300円前後から、高い店の値段は1000円以上で天井がないほどです。
また蕎麦店で楽しむものに「そば前」というものがあります。
蕎麦をオーダーする前にお酒をいただくという、粋な大人の飲み方です。
お銚子1、2本だけです。それ以上はいけません。
そして蕎麦店には独特のおいしいおつまみは「だし巻き卵」や「板わさ」が定番です。
中でも酒飲みしか知らない「鴨抜き」というのは鴨南蛮から蕎麦麺を抜いたものです。
麺を抜いた鴨南蛮で「鴨抜き」です。
居酒屋も営業時間短縮の昨今、営業する側は大変ですが、集団にならず一人で蕎麦店に入り、銚子2本、締めにざるそば! 1時間前後で店を出る、というスタイルは酒飲みも感染に対して責任を持てる飲み方かもしれません。