▼補陀山 円通寺の御朱印。(曹洞宗/東京都荒川区南千住一丁目)
「大東京百観音 第八十四番」と印が押されていますが、
霊場としての正常な機能はしていないようです。
国内にはたくさんの霊場がありますが、その設立の年代や経緯は様々です。
全く寺院側とは関係なくマスコミが勝手に作り上げた霊場もあるようです。
それでも多くの巡礼者がいれば寺院側も無碍にはしないでしょうし、何となくそのままある程度の知名度を持つ霊場となる場合もあります。
たとえ寺側が仕掛けたものでも、
知名度も人気もなく巡礼者が少なければ、
当然その霊場は廃れていきます。
「大東京百観音」霊場もそんな例の一つかもしれませんし、
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三ノ輪駅や南千住駅近辺には、目黄不動の永久寺、遊女の投げ込み寺の浄閑寺、
首切り地蔵の延命寺、小塚原刑場跡地の回向院など、どこも御朱印をいただけて、
それぞれ興味深い歴史を学べる寺院が多くあります。
また、少し歩けば素盞雄神社にも参拝できます。
▼地下鉄「三ノ輪駅」から歩いて、都電荒川線の「三ノ輪橋停留所」を覗いていきましょう。
▲▼数年の間に、レトロな雰囲気のビルの「梅沢写真会館」という文字が消されていました。
▼都電停留所へは大通りの国道4号線側からは、このビルがくり抜かれ、入口になっています。
▼ビルの下のトンネルを抜けてもレトロ感は抜けません。
▼東京で唯一残っている路面電車、都連荒川線「三ノ輪橋停留所」です。
「駅」ではありません。「停留所」です。
しかし「関東の駅百選」に選ばれています。
昔は鉄道路線でも「駅」ではなく「停留所」と言う名が使用されていました。
現在ではバスの停留所が「バス停」と省略されて呼ばれていますが、
東京に張り巡された路面電車がトコトコ走っていた当時は「電停」とも呼ばれていたそうです。
この停留所にしろ電車にしろ鉄道マニアには人気が絶えないようです。
▼都電に平行して三ノ輪橋商店街「ジョイフル三ノ輪」が長く延びています。
下町テイスト満点の商店街は安い、美味しいの人気店もあり人通りが絶えません。
商店街から戻り、円通寺に向かいます。
▼裏通りから国道方面に目を向けると東京の光と陰のような情景が見えます。
▼途中、趣のある寺が現れます。江戸時代にはこの辺りは門前町だったようです。
▼フェンスができていますが、昔は対の狛犬が並ぶこちらが山門だったのかな?
▼791年、坂上田村麻呂の開創と伝わるそうです。
▼参道正面にこの寺のランドマーク。
寺の本尊は聖観音菩薩でが、この巨大な異国情緒っぽい観音様は?
幾何学的なシンメトリーな造りの本堂は、場所が違えば寺とは思えません。
1日の時間によっては陽が射し光り輝くようです。
▼「百く(?)んおん」読めませんが、百くわんおん、百観音でしょう!
寺のHPから首塚説明の引用です。
八幡太郎義家奥羽征伐して賊首四十八をこの地に埋め四十八塚(首塚)を築く、これにより、この地が小塚原と呼ばれる事となった。
小塚原=小塚原刑場跡と誤解してました。
どうやら小塚原は南千住駅前辺りからこの寺周辺までの広域を指すようです。
日本橋を発ち最初の宿場町「千住」の手前は広く何もなく、
広々とした「原」っぱだったのでしょう。
▼4枚の板碑には「永仁四年」(1296年)の文字が刻まれているそうです。
▼上野寛永寺の総門(黒門)が明治になってから移築されています。
寛永寺黒門は上野公園の入口、西郷像への階段の下手前辺りに立っていました。
▼だいたいこの辺りだったのでしょう。
現在は「上野黒門町」という名称だけが残っています。
上野戦争で亡くなった彰義隊員を、円通寺の住職が上野公園の西郷隆盛像があるあたりで火葬した縁から黒門が移築されたそうです。
▼門の正面にあるので新政府軍側からの弾痕でしょう。
門は穴だらけで激戦だった様子が伺えます。
▼黒門の裏手に、新政府軍側に対する旧幕府軍の彰義隊の墓があります。
墓の周りはたくさんの供養碑が建ちます。
▼「彰義隊八番隊長・・」や「遊撃隊長・・」の文字が読み取れます。
▼「 榎本武揚書」の文字。
▼こちらが墓でしょうか「死節之墓」と彫られていました。
▼これは供養塔?
▼こちらは「吉展ちゃん」の慰霊地蔵です。
昭和の大事件「吉展ちゃん誘拐殺人事件」は1963年に事件が起こり、
2年以上の捜査の末、
犯人 小原保の自供により円通寺墓地で白骨化した被害者の遺体が発見されています。
事件は本や映画、ドラマにもなり、この事件を境にマスコミとの報道協定など誘拐事件の取扱い方の変化や、プライバシー問題などが浮き上がってきています。
犯人の身代金を要求する電話の声がTVやラジオで流されるなど、国民的関心事となった事件の被害者は当時4歳でした。
弱きものが犠牲者となるのはいつの時代も変わらないようです。
首塚、彰義隊の墓、慰霊地蔵と、いささかダークサイドで知られる寺でした。