▼補陀洛山 鉄舟寺の御朱印です。
正確な寺名は「鐡舟禅寺」になります。
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▼鉄舟寺は日本平の丘陵地帯東端を背にして建ちます。
静岡には「駿河三十三観音霊場(駿河一国観音霊場)」があります。
それをさらに絞ったような「駿河七観音霊場(安倍七観音)」があるそうです。
▼山号の「補陀洛山」は他でも同じ名称を持つ寺があったように思います。
「補陀洛山」は観音菩薩が降り立ったとされるインドの伝説上の山です。
山号ではなく寺の名称にも使われています。
三門に掲げられて看板には「駿河西国三十三番 22番」「東海三十三番 番外」と記されていました。
▼門をくぐると石段の先にさらに門が構えています。
こちらが三門になるのでしょうか? あるいは中門?
総門に次いで、三門が正解かもしれません。
▼2つ目の門をくぐった先の正面は、いきなり神社です。「熊野十二社」の扁額でした。
寺の起こりは古く飛鳥時代。
もとは「久能寺」と呼ばれ、久能山東照宮のある久能山の頂にあり、栄えたそうです。
さらに戦国時代に武田信玄によって現在の地へ移されています。
江戸時代末には荒廃して無住になっていた寺を、
静岡に縁のある幕臣 山岡鉄舟が再興し「鉄舟寺」となったのは明治に入ってからでした。
もっとも再興を目指した鉄舟は寺の完成を見ずに亡くなっています。
信仰の篤い清水の魚商が鉄舟の意志をつぎ、明治43年に寺はやっと完成したそうです。
▼鉄舟は180cm以上ある大男だったと伝わりますが、幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家で、剣・禅・書にも長けていたそうです。
一般的には名前は知られていても、きっちり説明できる人は少ない人物かもしれません。
▼宝物館には鉄舟の遺品なども展示されていました。
▼鉄舟の像正面に「開基」とされています。
再興された「鉄舟寺」としては「開基」でも間違いではないのでしょう。
▼鉄舟は侠客 清水次郎長とは意気投合したそうです。
幕末、咸臨丸が嵐に会い、修復のため清水港に立ち寄るも新政府軍の攻めに会い、大勢の死傷者が出ました。
海に浮く遺体は官軍の命により逆賊に「手をつけるな!」でした。
「放っておけ、埋葬するな! 」との厳命の中、
次郎長はさからって遺体を引き揚げ、丁寧に埋葬します。
「死ねば仏だ 仏に官軍も徳川もない 仏を埋葬するのが悪いというなら 次郎長はどんな罪でも喜んでお受けいたします」
長五郎の男気でした。
▼そんな次郎長の言葉には官軍側も「手も足」も出ないダルマだったようです。
そんな次郎長の後の人格に幕臣 鉄舟は意気投合したのでしょう。
行基に始まり、榎本武揚、山岡鉄舟、清水次郎長など、この寺とゆかりのある人物は数多いようです。
深くは何一つ知らない歴史と人物と寺から
撤収です!
▼次郎長はここにも出没!