栄法山 清光院 浄閑寺の御朱印
「じょうかんじ」浄土宗(京都荒川区南千住2-1-12)
中央の筆文字は本尊などでなく現在、寺の史跡になっている「新吉原総霊塔」が書かれていて、そのバックも法印などではなく吉原の遊女のイラストスタンプ。
本来の御朱印というより参拝記念的要素の強いものになっています。
現在は「吉原」も「山谷」も地名としては残っていませんが、
浄閑寺を知る上で「吉原」や「山谷」の
▼位置関係を理解しておくと分かりやすいかもしれません。
浄閑寺から吉原の入口「見返り柳」までは距離にして800mほどです。
吉原の西には「鷲神社(おおとりじんじゃ)」や「吉原神社」が鎮座します。
▼浄閑寺の近くを歩いていると軒下に何処かで見たような紋がありました。
「木曽御嶽神社」や、大田区の「御嶽神社」でいただいた御朱印の神紋です。
▼「御嶽山大教」という看板が出ていました。
信州木曽の霊峰「御嶽」信仰の教会のようでした。
御朱印を収集している者でないと、こんな神紋や看板には気を止めないでしょう。
▼浄閑寺の「山門」は江戸時代に建立されたので、右手には広い駐車場もあります。
▼山門手前脇にあるのは「小夜衣供養地蔵尊」。
「小夜衣(さよぎぬ)」は江戸時代、無実の罪で火あぶりの刑にされた吉原の遊女で、
その祟りが絶えないことから霊を慰める供養が行われるようになったそうです。
現在この地蔵尊は、おきまりの「悪い部分をなでると良くなる」という言い伝えに変わっているそうです。
▼それにしても相当年月を経た姿になっている地蔵像です。
遊女の名前がそのまま地蔵名になっているのは多くはないでしょう。
▼荒川区により浄閑寺通称の「投込寺」の説明が英語でも紹介されています。
吉原遊郭に関わる寺なので諸外国の人々も興味を持たれるのかもしれません。
▼山門をくぐると正面が「本堂」です。
江戸幕府公認の「吉原遊郭」は、元々は日本橋人形町にあり、明暦の大火後に浅草寺裏になる「日本堤」に移転しています。
人形町時代の吉原を「元吉原」、移転後を「新吉原」と呼ばれています。
御朱印に墨書きされている文字も「新吉原」です。
一般的には日本橋人形町に遊郭があったことは広くに知られてはいません。
「吉原」と言ったら、当たり前に浅草寺裏、現在地の「千束」を指します。
1957年の「売春防止法」施行までは公に営業されていました。
現在、その地名は消滅していますが多くの「ソープ」があり、その「仕事」が継承されています。
浄閑寺の創建は「新吉原」が誕生する前の1655年に創建されたと伝わります。
江戸時代後期1855年の「安政大地震」の際には、たくさんの新吉原の遊女が投げ込まれるように葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになったそうです。
「掟」で縛られていた吉原の遊女たちは、
「心中」「枕荒らし」「足抜け」「廓内での密通」」など、その掟を破った者は
「○○売女」という戒名をつけられ、菰に包まれ寺に投げ込まれたとも伝わります。
江戸最大の遊郭で最盛期は数千人の遊女たちがいたわけですから、
女たちの悲劇、喜劇も盛りだくさんだったのでしょう。
▼境内左手奥が墓域になっていて史跡の紹介もされています。
▼この墓石には「角海老 若紫之墓」と刻まれています。
若紫は、現在も吉原にその名称を引き継ぐ「角海老楼」の遊女。
明治26年に客に心中を強いられて死亡したそうです。
遊女の墓が個別に建つことは少なく「若紫(わかむらさき)」は別格のようです。
▼戴いた御朱印に墨書きされていた「新吉原総霊塔」です。
1793年以来の供養塚が改修されています。
1855年、安政の大地震で横死した遊女500人余りもここに眠ります。
新吉原の廃業までの約380年間に浄閑寺に葬られた遊女を含む遊郭関係者は25,000人ほどの数が推定されています。
▼花又花酔という川柳作家の「生まれては苦界 死しては浄閑寺」句碑。
遊郭の遊女たちの人生は悲劇ばかりではなかったでしょうが、
象徴的に「苦界」と表現されている吉原です。
「玉の井」などの色街に熱心に通った荷風は、吉原にも足を運んだことでしょう。
その遊女たちの悲劇も目にしてきた荷風は、ここ浄閑寺にも足を運んだそうです。
「震災」という荷風の詩碑。
関東大震災を体験し、その後の時代の変化に対する荷風の実感が表れています。
▼「ひまわり地蔵尊」は「ドヤ街」と言われた「山谷」に住み一生を終えた日雇い労働者たちの死後の安らぎを願って建立されています。
ひまわりの花は、太陽の下で一生を働きぬいてきた日雇労働者たちのシンボルともされているそうです。
東京のドヤ街山谷地区の「泪橋」が舞台だったのはスポーツ漫画「あしたのジョー」。
その発表から半世紀以上が経過していますが、まだその関心は失なわれていないようです。
その山谷に多くあった簡易宿泊所には日雇い労働者たちが15,000人も寝起きしていた時代もあったそうですが、
半世紀の間にバックパッカーたちに、英語表記の格安ホテルとしても利用されるようになり、年間10万人の宿泊客数の記録が残っているそうです。
▼「首洗いの井戸」。
親の仇である平井権八を追った本庄兄弟。
先に兄助七が平井の返り討ちに遭い、さらに兄の首を井戸で洗っていた弟助八もそこを襲われ命を落とすという、仇討ちに失敗し、悲惨な末路をたどった兄弟の最期の地がこの井戸だそうです。
▼「新比翼塚」は情死した遊女「盛絲(せいし)」と、内務省の小使の二人の追善に建てられたもの。
永井荷風はこの比翼塚に興味を持って浄閑寺を訪問しているとも伝わります。
▼ダークなネタの多い浄閑寺ですが、この時は弁財天も涙を流しているように見えました。
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