【21.03.23-rewrite 22.03.07】
▼待乳山 本龍院「待乳山聖天(まつちやましょうでん)」の御朱印です。
▼本龍院 「浅草名所七福神 毘沙門天」の御朱印(2022年)。
▼本龍院 「浅草名所七福神 毘沙門天」の御朱印(2013年)。
境内に上がると線香やお供用の大根を扱う受付がありますが、通常は御朱印授与所ではありません。ですが正月などはそこが授与所となります。
▼通常は本堂内でいただきます。
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▼各路線の「浅草駅」から歩くと10分ほどでしょう。
でも、御朱印収集者の方には、縁結びで人気の「今戸神社の近く」と言ったほうが分かりやすいでしょう。
▼今でも海抜10mほどの「待乳山」は、江戸時代からその見晴らしの良さに人々が訪れ、多くの文人墨客もやってきたそうです。
数多く描かれている浮世絵の中でも、広重の描いた「東都名所 真土山」は隅田川対岸からの構図でしょう。
絵に見える右の橋は隅田川に直角に合流する山谷堀に架かる「今戸橋」。
山谷堀は遊里 吉原に通う水路でもありました。
待乳山も当時は現在よりもう少し高かったのでしょう。
▼現在の山谷堀は遊歩道として埋め立てられ、今戸橋は親柱だけが残されています。
広重は待乳山ではなく「真土山」と表しているのは、
かつてのこの地域一帯は泥海で、この高台だけに土があったことから「真土」と呼ぶようになったとも言われています。
▼その高台になる「真土山」からは「634」も間近に見えます。
▼以下数枚の写真は、2022年元日と少し以前の撮影になります。
▼「トーキー渡来碑」が何故ここに建てられているのか分かりません。
石碑の建立者である貿易商・皆川芳造がこの地と縁があるようです。
寺は約1400年前、推古天皇の時代に地中から忽然湧き出た霊山で、その時、金龍が天より降って山を廻り守護したと伝えられています。
本尊は天部の一つ「歓喜天」ですが、全国のほとんどの「歓喜天」は開帳されることのない絶対秘仏のようです。
ですので「歓喜天」と言われてイメージが頭に浮かぶ人は少ないかもしれません。
▼扁額は「聖天宮」となっています。
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▼改めて境内を丁寧に見ていきましょう。
▼江戸時代末期に造られた「築地塀」が残っています。一番に絵になります。
▼こちらは西側にある入り口です。
▼石段脇に「池波正太郎生誕の地」の碑。
聖天町に生まれた池波の家は、現在は跡形もないそうです。
▼正面の石段に戻りました。本当にいい景色です。
▼待乳山聖天には「ダイコン」と「キンチャク」の印が数多く描かれています。
「歓喜地蔵尊」と言われても、やはりよく分かりませんが、説明板には「古くから子育て地蔵」として伝えられているそうです。
ここだけ雰囲気が少し「おっかなげ」ですが、
▼柔和なお顔の地蔵さんは、そんな雰囲気を消してくれます。
▼本尊にお供えするのは「大根」。
スーパーの大根も高くなりましたが、ここは200円のようです。
お下がりは無料でいただけます。タイミングよく一度だけいただいたことがあります。
しかし、何故「ダイコン」なのでしょう?
寺のHPからの引用です。
大根は身体を丈夫にしていただき、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合を御加護頂ける功徳を表しています。
巾着は財宝で商売繁盛を表し、聖天さまの信仰のご利益の大きいことを示されたものです。
キンチャクの説明は理解できますが、ダイコンの説明は「大根」と「加護と功徳」の繋がりが分かりません。
まぁ、稲荷社への油揚げとか、地蔵さんへの塩とかコンニャクと同じように考えましょう。
要するに昔からの「ならわし」で確かなものは少ないのかもしれません。
神仏にまつわる言い伝えや習慣は、科学的な考えを超越してるのが普通ですから。
▼ここまで「舞殿」があり「水行場」を見て、「狛犬」です。
狛犬は神社に「つきもの」ですが、
最近になってやっと、もともとは「仏教の守り神」だったことを知りました。
御朱印をいただき初めて10年近くなるのにです。
それまでは何も知らず考えず、ただ「ポカン」と見過ごしていただけでした。
子供の頃から見慣れてきた神社の狛犬に「何故?」は感じなかったのです。
▼ハイッ! 寺にいらっしゃる「狛犬」が普通なのでした。
▼2020年5月の連休の本龍院は、ほぼ閉鎖されていました。
本堂の扉も閉まり、寺関係者の姿は誰一人見当たりません。
▼ダイコンとキンチャクはオープンでした。
▼財宝がザクザク入りそうな大きなキンチャクです。
「縁結び」とか「金」にご利益の神社はどこも大にぎわいですが、
ここも「良縁」「和合」「財宝」のご利益大なのです。
しかしこの寺に、神社に群がるような浅ましさは見かけたことがありません。
神社と寺の「敷居」の高さの違いかもしれません。
▼「糸塚」は三味線の糸を供養するためとか。
「塚」の意味も最近やっと勝手な解釈ができました。
「塚」は日本人の「心」です!
▼かつては太田道灌が勧請した稲荷社があったそうです。
▼1781年に奉納された「銅製の宝篋印塔」は珍しいそうです。
▼本堂裏を一周して境内東側に戻ってきました。山を降りる「天狗坂」があります。
▼「天狗坂」上からは、かつての江戸下町が一望できたのでしょう。
スカイツリーが立つ江戸の姿を広重に見せたいものです。
▼時代です! 「天狗坂」下から「さくらレール」と名付けられた乗り物が整備されています。モノレール、スロープカーです。
▼「天狗坂」はかつては石段もなかったことでしょう。
そして月明かりもない闇夜には天狗でも出たかもしれません。
▼彼らは参拝者を天狗から守るようです。
▼時代は移り、年配者や足の不自由な参拝者を難なく本堂近くまで運びます。
神社参道にエスカレータなどと同じように、最近よく目にするようになりました。
没後約160年の広重が見たらどんな言葉を発し、どんな絵を描くでしょう?
浪曲のイメージ外ですが、「浪曲」と「講談」の違いも分からない人間はムリムリ納得するしかありません。
▼最後にBLOGをここまで見ていただいた方だけに、秘仏歓喜天のお姿披露です。
写真は歓喜天 - Wikipediaと楽天市場からお借りしました。
この絵も広重に見せたいのですが、春画爛漫の時代に生きた広重は歯牙にもかけないかもしれません。
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