当社は「やきり じんじゃ」と読み、濁りません。
地名も「やきり」ですが、駅名は濁音で「やぎり」です。
細川たかしの歌も「やぎりの渡し」です。
▼御朱印はこちらの授与所でいただきました。
御朱印は書き置きでしたが、奥様らしき方に墨書き朱印された和紙に丁寧に日付を入れていただきました。
少しお話ししたなかで、ここ数年は驚くほどの遠方から参拝に見える方もいるとか。
また、近頃の印刷された御朱印にもアキれていらっしゃる様子。同感、同感!
▼SNSは巫女さん担当だとか。娘さんかもしれません。
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矢切の住宅地は高台に集中しています。
▼その中でさらに島のように高くなった場所に当社は鎮座します。
神社の西側になる江戸川沿の低い地域はほとんど農地になっています。
しかし、江戸時代の民家は低い江戸川沿いにあり、1704年の大洪水によって多数の死者と大きな被害を被った後、人々は高台に移住したそうです。
その移住をきっかけに京都から勧請した稲荷を祀ったのが当社の始まり。
したがって、当初は「稲荷神社」と呼ばれていたそうです。
▼境内への石段途中にある狛犬のマスクは小さく見え「アベノマスク」を思い出させられます。かなりの数の「アベノマスク」が残っていると聞きますが・・・。
肉感的な大きな狛犬に既製のマスクでは口を覆いきれません。
▼石段の上のこちらは「稲荷神社」当時からのものでしょうか?
明らかにキツネですが、鍵も巻物も咥えず、小狐と玉を抱えている狛犬のスタイルです。あまり見かけないタイプだと思いますが、本ブログが見落としているだけかもしれません。
▼社殿前の広い空間は少し殺風景に感じますが、イベント開催などのためにこんなスペースが必要なのでしょう。
▼社殿前にも古い造立と思われる一対の狛犬が置かれています。
▼拝殿屋根の頂上には龍らしき絵が描かれていますが、漆喰絵なのでしょうか。
▼本殿はガラス張りの覆屋で保護されています。
▼「忠魂碑」などの石碑。
▼社殿右となりにあるのは道真を祀る「天満宮」。
ここにも覆屋根があってよくわかりませんが、社殿の屋根瓦に複雑な模様が施されています。
地域の素朴な鎮守というイメージの神社でしたが、
かつて、細川たかしの「矢切の渡し」がヒットした当時は当社がその聖地となったそうです。多くの演歌ファンが訪れていたのかもしれません。
ピーク時には神社と「渡し場」までを結ぶ「矢切ふるさと馬車」などと呼ぶ乗り物が出ていたというのでオドロキです。
ブームがムーブしていくのは当たり前。
移り変わりゆく中で、何をどれだけ、どのように残すかで、単なる一過性のブームで終わることのないものにできるかもしれません。
▼神社の石段下でグルッと周囲を見回すと何やら怪しげな一画が見えます。
▼「矢喰村庚申塚」と呼ぶそうです。
「矢切」についで「矢喰」という言葉が出てきました。
戦国時代には下総国の国府台城(市川市)一帯で北条氏と里見氏をはじめとする房総諸将との間で戦いが行われています。
当時のそんな争いの中で一番の被害者はやはり庶民、農民でした。
家は焼かれ、田畑は荒らされ、女、子供、年寄りは逃げまどい、男どもは人足に狩り出され傷つき、一家は離散という塗炭の苦しみを味わわされて
戦は「もうたくさんだ!」という思いから、
戦場の弓矢を厭って「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれたそうです。
そして二度と戦乱のないやすらぎと健康を願い「矢喰村」と刻んだ庚申仏や地蔵尊が祀られ、村人は朝に夕に祈ってきたそうです。
▼青面金剛像と「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像です。
時間があったので「矢切の渡し場」まで歩いてみます。距離は片道約1.5km。
梅ではないので早咲きの桜でしょう。こんな庭木のある家は羨ましい。
この家の構造はタダものでない。板張りの外壁だから昭和以前の建築?
▼矢切で「バオバブ」を見つけました。
▼本場アフリカの「バオバブ」はコレです。(▼写真は「wiki」)
似ていましたが全然違います。幹の太さや高さは全く違います。
育ちすぎて邪魔になった部分を伐採して「ひこばえ」のように一部分だけ残したのでしょう。見事な矢切の「バオバブ」です。
矢切は伊藤左千夫の悲恋小説「野菊の墓」の舞台でもあります。その文学碑を見に行きます。
▼石段を登って「野菊苑」という高台の場所へ出ました。
木々に阻まれ江戸川堤防や東京方面の展望はありません。
▼地元の功労者でしょう。
▼細い陸橋を渡ります。
橋を渡った先は「西蓮寺」という寺の敷地内のようでした。
「矢喰村庚申塚」の起こりとなった「国府台戦争」の史跡にもなっています。
▼そして「野菊の墓文学碑」です。
碑は伊藤左千夫の門人の筆によるものが昭和に完成されています。
文学碑なので他に何もありません。
明治時代を舞台にした小説なので政夫と民子の恋は、現代の若者には理解しがたいものでしょう。
しかし近年まで何度も映画、ドラマ、舞台、コミックになっています。
漱石が絶賛しただけに、表面だけでなく現代でも通じる内容を持っているのでしょう。
▼「我輩はネコである! でも水瓶には転落しません!! ヨ、漱石さん」
▼「野菊苑」を下って田園を進むと江戸川堤防に、矢切を観光地にしたい思いがイッパイの看板に出会います。
▼堤防下に小さな観光案内所も、開けているのが精一杯の様子。
▼堤防上はのどかでノスタルジックな風景が伸びて、同じ東京の県境にある川でも「多摩川」と「江戸川」では周囲の眺望はかなり異なります。
都会的にレンガ色に塗装整備されたランニングやサイクルロードと、
より人の手が加わっていないように自然な形を見せようとする姿、その違いの好みは分かれるのでしょう。
▼堤防上から「渡し場」方面の眺めです。
河川敷はゴルフコースになっているようです。
▼望遠でシャッターを切っても鮮明ではありません。
▼堤防を降りて振り返りました。
▼道幅はともかく、民子が政夫を追った景色と大きな変化はないかもしれません。
▼もちろん、当時は以下の写真のような俗物はない。
▼「矢切」を伊藤左千夫より有名にした細川たかしが昭和の時代に「識」しています。
「渡良瀬橋」と同じように曲が流れるような仕掛けを作れば、ジジさん、ババさんたちは喜ぶ事間違いなし。
▼この小舟でライフジャケットを身につけ対岸に渡るのでしょう。
民子は「連れて逃げてよ!」と心では思っていたかもしれません。
▼そして対岸の柴又です。
サクラがトラさんを心配していた東京側の柴又、
政夫と民子が生きていた千葉側の矢切から時が流れました。
どちらもブームを経験し、そしてその衰退も経験しつつあります。
クールダウンして、どちらもクールジャパンの一角を担えれば願うところでしょう。
▼矢切対岸の記事です。