▼三栄山 大正寺 「多摩新四国八十八ヶ所 第五番」の御朱印です。
▼庫裏に掲げられた案内板。
二つの霊場の札所となっていますが、読経もしくは写経を納経しないと御朱印はいただけないのかな、と考えさせられる案内です。
「巡拝」ではないのですが、持参の朱印帳にいただけました。
そのかわり「あれも これも くれ」ではなく、
「多摩新四国八十八ヶ所」の一体だけにしました。
正月には「調布七福神 恵比寿神」の御朱印がいただけるようです。
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▼京王線「調布駅」を北に出て「天神通り」を進み、甲州街道を渡れば寺は右手です。
というより大正寺は「布多天神社」の手前、と言ったほうが分かりやすい。
▼「天神通り」沿いに「常光院」の額を掲げた竜宮門が開いています。
人々はこの前を素通りして「布多天神社」に向かいます。
竜宮門をくぐって参拝しよう、拝観しようとする人はごくわずかです。
天神社と隣接しているような位置にある寺なので、別当寺であったことは容易に想像できます。
明治期に分離された後は、普段人々はほとんど神社に向かいます。
そして寺は葬儀関連のみの訪問となることが多いでしょう。
さらに何となく神社より敷居が高く感じる人々がほとんど。
▼門前でこんなに愛嬌を振りまいているのにです。こちらは「誕生仏」。
▼そして、そうじ小僧。
これまで単に「そうじ小僧」と思っていましたが、もっと深い意味がありました。
彼らはゴミを掃き出すわけではなく「難」を掃き出してくれるようです。
「十難掃出地蔵」という文字を見て初めて知りました。
寺巡りを7、8年も経験しているのに・・。
「人の七難より 我が十難」です。
▼竜宮門の内部は鮮やかな「仁王像」と「四天王像」が色の競演を競っています。
▼境内内部から竜宮門を振り返りました。
竜宮門は、中国明朝の建築様式を取り入れた形と言われ、もともとは黄檗宗の門構えでしたが、
現在では宗派に関係なく、また神社でも多く見られるようになっています。
竜宮門の選択は特に意味がなさそうで、単に「カッコイイ」から一時期ブームとなったと聞いています。
いずれにしても「浦島太郎」の竜宮城の門ということで、日本全国民が知る形です。
▼竜宮門脇に獅子や十二支を掘った背の高い石灯籠が目立ちました。
石彫職人は「彫刻家」とは呼ばないでしょうが、木を彫って、石を彫って、粘土、金属を対象に形にしていく、その仕事に差はないでしょう。
見事な彫刻です。
▼境内は通りから見たより意外と広く、とにかく緑であふれています。
きっと秋には紅葉に惹かれ、多くの人々が寺の竜宮門をくぐってくること間違いないでしょう。
▼奇妙な形の石塔には「鐘楼門建立志納者」と刻まれています。
ということは、ここまで「竜宮門」と書いてきましたが「鐘楼門」が正解のようです。
上階に「鐘楼」を構える「竜宮門」という理解で良いでしょう。
▼本堂を正面に見る景色も美しい。
▼寺の創建は1914年、大正期に三つの寺が一緒になったそうで、山号が「三栄山」というのも納得です。
広い境内は柵が設置され、足を進められない区域があります。
▼大子堂らしき建物へも近寄れません。
▼おまけに「恵比寿神」は背を向いているそうなので、版木をバンバン叩いて「来たよ!」と挨拶するそうです。
▼台座には「山帰釈尊」とありましたが、意味不明です。
▼涅槃像もありましたが、ここへも近くには寄れません。
▼望遠で足裏を拝借。
▼それにしてもグリーンが美しいのですが、手入れの苦労も伺えます。
脚を踏み入れられない箇所は、整備が追いついていないことが理由かもしれません。
もしくは、その逆で庭が荒れるので特定の期間だけ解放されるのかもしれません。
▼足元には様々な石仏が苔むしています。アンニュイ如意輪さんでしょうか?
この寺、イチバンの記憶となりました。
▼こちらはカメか、カエルか不明。コケで緑だから「アマガエル?」違います!
▼「布多天神社」の右隣に大正寺の墓域があります。
道路を跨ぐ歩道橋のような構造物が墓域方面に伸びています。
三つの寺が一緒になった大正寺の、元の一寺「栄法寺」があった区域だそうです。
▼ここも石灯籠の彫刻が際立っています。
▼真言宗の寺だったことを思い出させられます。
この先の墓域に進むのは遠慮しましょう。
紅葉の時期には、どんな姿を見せる境内か?
もう一度確かめに来たくなる大正寺でした。
▼多摩新四国の記事。