▼清瀧神社(せいりゅうじんじゃ)の御朱印です。(千葉県浦安市堀江四丁目)
▼清瀧神社の御朱印(2013年)。
2019年と2013年で御朱印要素は何も変化していませんが、
神紋の「右三巴」の朱印サイズが大きくなっているようです。
神社名の読みは「せいりゅう」ですが、知らない間は「きよたき」と読んでいました。
「瀧」の字は「滝」の旧字で、居酒屋チェーン「養老乃瀧」でお馴染みです。
旧字を読めても「たき」と「ろう」が精一杯。
氵が無ければ「龍(りゅう)」と読めますが、氵付きの「瀧(りゅう)」はほかに知りません。
と思ったら、目黒不動「瀧泉寺」がありました。きっと他にもあるでしょう。
--------------------------------------------------------------------------------------
浦安の町から東京湾の海は遠い距離にあります。
昭和40年頃から始まった埋め立て事業で浦安市の面積は4倍になりました。
その分、海は遠くなったのです。
現在は京葉線「新浦安駅」からの方が海は近いことになりますが、それでも東京湾を見るには、かなり歩かなければなりません。
清瀧神社は当然埋め立て前の土地に鎮座します。
▼広重の名所江戸百景「堀江ねこざね」に描かれた浦安中心部です。(名所江戸百景)
手前は東京湾で境川河口から遡る奥は現在の旧江戸川でしょうか?
神社は描かれていません。
▼しかし昭和6年、松井天山によって描かれた鳥瞰図には神社が描かれています。
神社は図の奥左の何もない荒れ地のようなところにポツンと描かれています。
右の流れが旧江戸川、左上と描かれていない奥は東京湾。
中央を横切る境川と神社の位置関係が現在とは少し異なるように感じます。
そしてこの図は山本周五郎の「青べか物語」に描かれた時代の浦安とほぼ一致しています。
「青べか物語」では荒れ地を「沖の百万坪」、神社を「沖の弁天社」として、こんな風に描写しています。
なんのふぜいもない、だだっ広いだけのその荒れ地のほぼ中ほどに、無人の、小さな、毀れかかったような古い社が、ひねこびた六七本の松に囲まれて建っている。
と、ここまで書いて、「青べか物語」の「沖の弁天社」が清瀧神社だと思っていましたが、違いました。
「沖の弁天社」は清瀧神社とは別にありました。
▼清滝弁財天です。
▼こちらは清瀧弁財天となっています。
「青べか物語」で語られている「沖の弁天社」は、
明治期から大正期には神社のご利益を求めて、深川から蒸気船に乗った参詣客が大勢おとずれ、一時期大変賑わったそうです。
清瀧神社より南に1kmほどでした。
この弁財天社の話は別の機会にしましょう。
▼旧江戸川から境川が始まる現在の様子です。
▼魚介類を採って生計を立てていた住民は、この境川を中心に浦安の町をつくり生活していました。境川周辺は、いわば浦安の町の原点でしょう。
現在も、いくらか漁師町らしき面影を残しています。
広重が描いた茅葺らしき民家が並ぶ場所の現在です。
▼旧江戸川に「浦安橋」が架かる以前は、橋の下を蒸気船が通っていたそうです。
▼浦安側から東京方面に見える建物の下は「東京23区内唯一の島」になっています。
▼「妙見島」は橋の上の途中から下に降りられますが、ほとんどが工場で埋め尽くされ、1軒だけ派手にニョキッと建つのはラブホです。
▼さて、清瀧神社は浦安駅から真っ直ぐ歩き「境川」を渡った右手にあります。
最初の数枚は2013年訪問時の写真です。
神社の祭神は漁師の町らしく大綿津見神(海の神)です。
▼2019年の再訪です。
境内は改修中らしく雑然としていました。
とても落ち着いて参拝できる状況ではありませんでした。
工事用設備が銅板葺きの拝殿も凛々しい姿を隠しています。
漁師町かつての賑やかさは、浦安の名を全国区にして久しく、今や何度訪問しても飽きない「TDL」に持っていかれているようです。
「青べか物語」は映画にもなっているので、浦安の名は2度の全国区というご褒美をもらっていることになります。
もっとも「TDL」は「浦安ディズニーランド」ではありませんが・・。
▼稲荷社、豊受神社とともに「浦安三社」に共通して築かれている富士塚です。
最後に、同じ浦安の「豊受神社」の記事でも少し触れていますが、
改めて「青べか物語」時代の浦安の町を再現した「浦安市郷土博物館」の写真を掲載しておきます。
▼少し距離がありますが、境川沿いに東南に歩くと市役所の手前に博物館はあります。ぜひ足を伸ばしてみてください。
車なら市役所の隣の建物が無料駐車場となっています。
▼「浦安三社」の記事。