横浜 厳島神社の御朱印
「いつくしま じんじゃ」主祭神:市杵島姫尊(神奈川県横浜市中区羽衣町2-7-1)
由緒書きや神饌と一緒にクリアホルダー入りで渡されました。
▼御朱印は社殿左手の授与所でいただきました。
▼当社へは「関内駅」から徒歩数分。
厳島神社は横浜元町にも一社存在します。
混同を避けるため便宜的に「横浜厳島神社」としていますが、
▼所在地から「羽衣町 厳島神社」、また「横浜弁天」とも呼ばれています。
▼その「鎌倉街道」沿いに朱色の鳥居が建ちます。
地域一帯は江戸時代初期に埋め立て開墾された新田です。
当時の横浜村は入江がある砂州上の寒村でした。
その細長い半島状の砂州の先端は洲干島、または洲乾島(しゅうかんじま)と呼ばれ、当社も「洲干(洲乾)弁天社」と呼ばれていました。
さらに「杉山弁天」「清水弁天」とも呼ばれていたそうです。
当地は寒村ながら松林が続く景勝地でもあったそうです。
▼鳥居の社額は撮影に失敗しましたが「横濱辨天」と書かれています。
▼鳥居の先は参道になっていますが、後に整備されたものなのでしょう。
▼参道の先は駐車場になっていますが、ここは神社の駐車場なのか分かりません。
▼境内の北東側にもう一つ鳥居が建ちます。こちらが神社正面になるのでしょう。
車ならこの鳥居から進入すれば駐車スペースがあります。
▼こちらの鳥居の額も「横濱辨天」と書かれています。
▼手水舎の水は休止中でした。
▼御朱印にも押されていた神紋は波模様に「三つ鱗」。
当社の創建は治承年間、1177年頃になります。
頼朝が伊豆国土肥にあった杉山弁財天を当地に勧進したのが始まりだそうです。
元は現在の「馬車道駅」近くに鎮座し、明治に入ってから街区整備のため、現在地の羽衣町に移転して厳島神社と改称されています。
それまでは現在の港近くの「神奈川県立歴史博物館」あたりに一ノ鳥居が始まり、四ノ鳥居まで続いていたそうです。
現在の「弁天通り」という名称にその名残りがあります。
▼祭神の市杵島姫尊、多紀理姫尊、多岐都姫尊にご挨拶です。
社殿は明治の大火、関東大震災や戦災などで何度も焼失されたものが、昭和に入って再建されています。
▼神楽殿です。
▼境内は広々と空間を取っていて少し殺風景に感じましたが、社殿右手の一角は緑に覆われています。
▼「弁財天」の幟。
▼神橋の下は小さな神池になっています。
▼扁額は「銭洗辨天社」と書かれています。
▼雰囲気のある岩窟には祠が二つ。
▼お金を増やしたい方は、左の大きな岩窟で「銭洗い」です。
▼道祖神のような石像と宇賀神がいらっしゃいます。
▼もう一つ別に朱色の鳥居があり、こちらは「豊受稲荷大明神」です。
▼「聞かん坊」のようなユニークな表情の神狐。
▼2頭は顔だけ向き合っています。
▼社殿脇にも一対のカワイイサイズの神狐・・・。
▼もう一度、太鼓橋を渡り戻ります。
後に知ったことですが、江戸時代には当社を「下の宮清水弁天」、
元町の厳島神社を「上の宮杉山弁天」とも称していたそうです。
活気と喧騒の関内の街中で、オアシスのような存在の神社でした。