吉原神社の御朱印
「よしわら じんじゃ」主祭神:倉稲魂命(東京都台東区千束3-20-2)
弁財天の文字を囲む「よしわら」のひらがなは、「よし」の二文字を大きくヘビの形にして、その脇に「わら」の文字が書かれています。
古代インドの女神「弁天」は、日本古来の「宇賀神」と習合一体化されていることもあります。
「宇賀神」は老人の頭を持ち身体は「白蛇」の姿をしていて、農業・食物・財福の神とされています。
その「白蛇」のヘビの形を「よし」の文字で表現しているという御朱印です。
神社印の「江戸新吉原仲之町鎮座」のスタンプは、
吉原が現在の人形町から浅草田圃へ移転させられ、旧吉原に対して浅草の「新吉原」という表現がされ、後に単に「吉原」と呼ぶようになったようです。
▼吉原神社 浅草名所七福神 弁財天の御朱印です(2023年)。
▼吉原神社 弁財天の御朱印です(2013年)。
▼吉原神社の御朱印です(2023年)。
▼吉原神社の御朱印です(2017年)。
▼吉原神社の御朱印です(2014年)。
▼吉原神社の授与所は、かつては開所日が限定されていましたが、昨今常時開かれているようです。
▼地下鉄「入谷駅」「三ノ輪駅」のどちらから歩いても10数分でしょう。
浅草寺からの徒歩でも同じような時間です。
御朱印目当てに直接参拝に訪れる人は多くはなく、徒歩数分に鎮座する「鷲神社」参拝などの流れから訪れる人がほとんどでしょう。
▼神社前の「仲之町通り」、通りの奥がいわゆる「吉原」=ソープランド街です。
▼反対側は神社の境外社となる「吉原弁財天」がある南西方面です。
▼狭小な敷地の奥に社殿が建ち、手前の社務所が景観を大きく塞いでいます。
このパターンは東京都心の神社では度々見かけられます。
吉原は江戸時代にも大火がいくつもあり、その後も明治の大火、関東大震災、東京大空襲で何度も焼失されています。
現在の社殿は1968年に再建されるなど戦後に整備されていますので、時を感じさせられるものはほとんど見つかりません。
▼鳥居脇に「逢初桜(あいぞめざくら)」という江戸時代の神木が平成に復活した案内があります。時季になれば花開くでしょうが撮影時は冬。
▼狛犬は鳥居をくぐるとすぐで見逃しそうになります。
ほかで多くには見ない形ですが、どう見ても現代的。昭和の造立でしょう。
▼これまたすぐに手水舎でコロナ禍対応スタイル。
▼社殿はコンパクトなコンクリート製ながら美しい姿。
▼「明石」「榎本」「開運」「九郎助」「玄徳」と5つの稲荷提灯。
5つの稲荷社は江戸時代の吉原遊郭の入口と四隅に守護神として鎮座し、遊郭で働いていた女性たちによる信仰も集めていました。
明治の1875年、その五社が一つにまとめられ「吉原神社」として創建されています。
吉原の郭内にあった稲荷社がどんな大きさ、姿をしていたのか不明ですが、現在東京の街角などで見かける小さな稲荷社より、さらに小さな祠のようなものだったかもしれません。
よくあることですが、そもそも何故合祀されたのか、その意図はよくわかりません。
もちろん管理するのには便利でしょうが・・。
江戸時代の吉原と、明治から昭和に至る時代とでは廓の性格が大きく変化してきたようですが、明治に入って吉原神社一社となっても吉原で働く人々に信仰されたことだけはまちがいないでしょう。
しかし廓の女たちが何を祈ったのか想像するしかないのですが、現代のような内容の「縁結び」や「厄除け」ではなかったでしょう。
▼社殿右側にある小さな社は「お穴様」。
▼「産土神」「地主神」といった神と同じかもしれません。
▼江戸時代の吉原の5つの稲荷社も覆屋のない、こんな姿だったかもしれません。
▼お穴さまの手前に古そうで小さな石像は、どこかで見たような姿。
右の像は興福寺で有名な天燈鬼の姿に似ています。
▼まったく文字が読めない石碑は???です。欠けた部分を補修されたような箇所もあるので大切なものかもしれません。
▼境内に古いものは多く見られないと前述しましたが、これも古そうです。
▼社殿左手奥にはモダンな造形の神輿庫らしき建物が見えます。
▼境内を出るとコミュニティバス「めぐりん」に遭遇。
台東区運営の運賃100円の「めぐりん」は浅草周辺や根岸周辺などの5路線が運行されていて安くて便利でしょう。
同じように100円のコミュニティバスは中央区では「江戸バス」が運行されています。
▼神社を出て通りを右に進むと区立「台東病院」。場所柄、かつては性病専門病院。
▼通りの名称はいつの間にか「仲之町通り」から「せんわ通り」に変わっています。
▼通りが左に大きくカーブすると先方に数本の赤い幟が見えます。
ここはかつては「弁天池」「花園池」と呼ばれていた池の跡地。
▼そして吉原神社の境外社という立ち位置なのか「弁財天」が祀られています。
▼異様に俗っぽくハデな一画ですが、弁財天が祀られている社殿はカラフルな弁財天像が描かれ、ハデさを増幅させています。
▼ハデ画をグルッと回って社殿正面。
▼正面も色で沸き返っています。
この場所を初めて訪れた時は整備前の近寄りがたい雰囲気で、そこに何か感じさせられるものがありましたが、全く様相は異なり明るくなりました。
その開けっぴろげな明るさから何かを感じ取るのは難しくなりました。
▼社殿前の小さな弁天池もな鯉たちもハデカラーを競っています。
▼不動明王らしき小さな像も見つかります。
▼この一画の中央には観音像。
震災、戦災で亡くなった人々を供養する観音像です。
▼そして地蔵尊も。
関東大震災では逃げ遅れた多くの遊女たちが、ここの池に飛び込み溺死したそうです。
▼「角海老」は江戸時代からの吉原遊郭の老舗で、現在もソープランドとしてその名が継がれています。
女性をはじめとした吉原で働いていた人々の喜怒哀楽を知る社寺や書物などは数多くありますが、この一画もその一つでしょう。
「蛇塚」あり、数多くの「菩薩」もあり、まるでワンダーランド。
▼かつての「吉原大門」の写真などが展示されているコーナーもあります。
▼弁天を離れて浅草方面に進むと「お歯黒どぶ」の跡とも言われる「花園通り」。
▼さらに歩くと懐かしい言葉「ちょべりば」。「初代」というのは意味不明。
▼「wiki 吉原」から借りたの女たちは「チョベリバ」?「チョベリグ」?
「ヨシワラ」は人によっては「チョベリバ」であり「チョベリグ」でもあるでしょう。それぞれの「ヨシワラ」です。
この神社を訪れ「ワタシのヨシワラ」を見つけてみましょう。