洲崎神社の御朱印
「すさき じんじゃ」主祭神:市杵島比売命(東京都江東区木場6-13-13)
2023年に御朱印をいただいたのは、何と11年ぶり。
参拝はその間に1、2回で、直近では5年ほどの間隙があります。
その5年の間に「玉の輿たまちゃん」が生まれていました。縁起物のブームです。
有名な千葉の安房国一宮など「洲崎神社」という名称の神社は、海に囲まれたこの国には複数あります。
▼「洲崎神社」は東京都江東区木場にもあり、江戸時代は名所にもなっていました。
神社は海際に鎮座して文字通り「洲崎」であり、賑わった景勝地でもあったので江戸時代の絵はたくさん残されています。
▼「洲崎弁天」として広重の絵もあり、手に取れるような風景描写を文字にする荷風も尋ねていますが、「洲崎」の地名は現在はありません。
▼かつての海岸線は今や遠くになり、静かな住宅街となった地に鳥居が建ちます。
▼洲崎の文字は「﨑」が使われています。
当社は1700年、江戸城に祀られていた弁財天を遷し「洲崎弁天社」として創建されたと伝わります。
祀られた弁財天像は空海作といわれ、綱吉の母 桂昌院の守り本尊でもあったそうです。
当社や地域一帯の街は震災と空襲で焼失されていますので、現在の建物は昭和の再建によるものです。
▼手水舎の横に「玉の輿たまちゃん」。
「たまちゃん」という名称は軽すぎて、その像もまるでマスコット。
しかし、八百屋の娘として生まれたと伝わる桂昌院は、将軍側室までになり「玉の輿」の代名詞になっています。
そんな桂昌院にあやかろうというわけです。
▼桂昌院は「お玉の方」とも呼ばれ、この「たまちゃん」は八百屋の娘らしく人参を抱えています。
▼普段は静かな境内ですが、さすが正月三日は賑わいの拝殿前です。
▼赤っぽい台座に乗った狛犬は、うなり声が聞こえてきそうな構え。
車訪問ですと特に案内もなく、侵入経路は見つけにくいのですが、神社の南側になる社殿横に数台駐車できるスペースがあります。
▼社殿はコンパクトですがバランスも良く装飾も美しい。
浮世絵などを見ると、景勝地だった江戸時代の社殿はもっと規模の大きなものだったようです。
▼社殿左手に境内社が三社並んでいます。
▼左から「弁天社」。以前は池に浮かぶ小島に鎮座していたそうです。
▼真ん中が「豊川稲荷」。
▼「於六稲荷」は於六という女狐が祀られているそうです。
▼風化して文字が読めない石碑と力石。
▼参道途中に寛政3年(1791)9月4日の高波を後の世にいましめた波除碑があります。
▼200年以上も前に建てられた「波除碑(なみよけのひ)」はヨレヨレですが貴重。
海に囲まれ、山から海に注ぐ無数の河川が網の目のように張りめぐされているこの国に住む、今も続く人々の水との闘いの一つの証でしょう。
▼「竿忠」は釣竿職人だったそうです。
▼この神社から東に運河を渡った一帯は、東陽一丁目と言う味気ない地名に変更されています。
永代通りの方から洲崎に向かうと、かつては門というか、アーチがありました。
通りは今でも「大門通り」という名称を残しています。
▼「州崎パラダイス 赤信号」という映画にもなった。1956年の映画の写真です。
そして、ここが江戸時代の根津から移転された遊郭で、1958年の売春防止法施行まで続いた男たちの楽園、パラダイスでした。
▼芥川賞作家・茂木好子が、そこで働く女たちの悲哀と希望を描いています。
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当時は誰もが知る存在だったのでしょうが、現在は近辺に建ち並ぶマンションの住民でさえ、パラダイスだった過去なんて知らないのかもしれない?
▼この通りを進むと・・・
▼かつて、女たちが1階の軒下や窓から男たちを誘っていた情景が容易に想像できる建物が今世紀初頭までは何軒か残っていました。
現在、ストリートビューで確認してみたら、1軒も見つからない。ゼロです。
小綺麗な住宅やマンションがとって変わって、その存在を確認するものが、もはや写真でしかなくなっています。
住人の不便さを思いやらず、昔街や重要伝統的建造物群などが大好きなものとしては、残念だがやむを得ないでしょうね。
▼この建物はスゴイ構造になっています。もちろんこれで1軒です。
洲崎神社のように、そんな町の変化と歴史を見つめ続けるのは、やはり寺や神社しかないのかも?
▼かつての面影をわずかに残しているのは、こんな所だけ。
これらもいつかは消えていく運命でしょう。
▼その裏は「洲崎川緑道公園」。
もはや洲崎パラダイスと結びつけるものは何もありません。
興味深い歴史を持つ神社とその周辺ですが、「たまちゃん」というマスコットも現れ、神社の人気も少し盛り上がるかも知れません。
[2017.05.06-rewrite 2023.01.06]