御朱印受付でなにやら、読むのにとてもメンドイ注意書きのようなカンバンが目立ちました。
「絵手紙」をいただきに来たわけではないので、スタンダードな印を1体だけいただきました。
中央に書かれている「常照我」は親鸞の言葉のようです。
▼「御朱印をいただけますでしょうか?」と受付の女性にお願いして、頭上を見上げれば、こんな案内板。
▼下を見れば、こんな案内が・・。
絵ハガキはともかく、御朱印が御朱印ではなく佛光寺では「法語印」というので呼ばれていました。
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そもそも浄土真宗の寺の多くは「原則 御朱印はない」と理解した方が良さそうです。
「原則」「基本」ですので、印をいただける寺もいくつもあります。
ワタシたちは、ひっくるめて「御朱印」と称していますが、本来、御朱印の生い立ち上、寺では「納経印」と呼ばれるのが普通でした。
しかし浄土真宗では長い「お経」を唱えなくとも「南無阿弥陀仏」と「念仏」することで「阿弥陀さまによる救い」のチケットがいただけるというのが「教え」だったように記憶?しています。
馴染みのある般若心経も真宗や日蓮宗では唱えませんから、般若心経を納経しようとしても受け取ってもらえないはず。
それ以前に真宗では「納経」という考え自体無いようです。
納経の始まりとも言える四国霊場や西国・東国三十三に真宗の寺はありません。
まぁ、これは時代的に真宗が確立する前にできてる霊場ですので当たり前ですが。
京都の東西の本願寺では記念スタンプはあったとしても「朱印」「法印」はありません。
なぜ「納経」が無いのかはこんな理由もあるようです。
要するに「一度朱印をもらえば、二度とお参りすることはない」「大事なのはお参りすることではなく、お参りして教えに出遇うこと」
「お寺を回ったというような達成感に腰を落ち着けてしまうのではなく、
教えを聞き続けようと立ち上がる必要がある」とおっしゃっています。
もっともなご意見であります。
しかし「一度朱印をもらえば、二度とお参りすることはない」という言葉は全ての御朱印収集者にあてはまりません。
2度、3度、御朱印をいただきに行くこともあれば、御朱印をいただかなくとも何度も参拝に足を運ぶ寺社だってあります。
また、浄土真宗も本願寺派や大谷派のほかに宗派は数多くあります。
東京浅草の東本願寺は「東本願寺派」で東西本願寺とは宗派は異なり、御朱印をいただけます。その朱印には本尊の名称はなく「光雲無碍」などと書かれていることが多く、やはり「法語」なのでしょうか?
だとすると浅草の東本願寺も「法語印」が正しいのかもしれません。
ということで、ここも東西本願寺とは宗派は異なり「法語印」がいただけるということです。
一口に「浄土真宗に御朱印は無い」という表現は的確では無いということになります。
各宗派により朱印に対する考え、理解が相当かけ離れています。
いずれにしても宗教の宗派というのは釈迦の入滅以降、人間が作り上げたもの。
それも、一般人が想像する以上に、仏の道を説く者同士とも思えないチナマグサイ争いを経て生まれた宗派もあり、とてもとても安直に理解できるものではありません。
そんなことは脇に置いておいて、浄土真宗の寺で「御朱印」や「法語印」をいただけたら、しっかり参拝することも忘れてはいけません。
本尊の阿弥陀如来はじめ、親鸞さん、蓮如さんの像があったらきちんとご挨拶です。