▼東睿山 金剛壽院 千妙寺の御朱印です。(天台宗・茨城県筑西市黒子)
見事な筆跡は「大雄殿」と書かれていますが、寺の本堂を指すのでしょう。
「東国花の寺百ヶ寺」の御朱印になります。
「東国花の寺百ヶ寺」は広い意味で霊場でしょうが、新しい発会と思っていたら、もう「20周年」になるようです。
その20周年記念印が左上に押されています。
▼御朱印は境内左手の寺務所で気持ちよくいただけました。
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▼千妙寺の最寄駅は関東鉄道常総線「黒子駅(くろご)」 になります。
茨城県の東地域にある寺社は、水戸、笠間、筑波、鹿島などの位置関係からおぼろげながら記憶できますが、県西部の寺社は、どの寺の近くにどの神社があるかなど、まったく覚えられません。
▼千妙寺も地理的には覚えられない寺の一つですが、google は難なく寺の前まで導いてくれます。
▼しかし、その山門は固く閉ざされています。
訪問者を拒絶するような大門の閉じ方は「東国花の寺百ヶ寺」としては
「あるまじき姿なのでは?」と感じたものの、左右の通用門は開いています。
▼怖気付かず、遠慮なく境内に入りましょう。
あっけらかんとした境内が広がっていました。
寺は慈覚大師円仁によって834年、筑波山麓に創建されたのがの始まりだそうです。
そして寺の山号「東睿山」は、もちろん「東の比叡山」を意味していて、後水尾天皇から授かった山号だそうですから、
当時はそれなりに力を持っていた寺なのでしょう。
仏教伝来以降、江戸時代まで寺は、国の権威と権力に深く関わり、ある権力者には疎まれ、ある権威には守られてきた歴史の積み重ねでしょう。
▼総本堂の「釈迦堂」は1738年の再建。古さを感じさせない改修が施されています。
寺の本尊「釈迦如来」が祀られているのでしょうが、扉は閉まっています。
▼釈迦堂の左隣は「客殿」。
建物は総本堂の「釈迦堂」より大きく、誰しもが「こちらが本堂?!」と勘違いしそうです。
「客殿」ですので、当たり前に様々な行事が開かれるのはこの建物でしょうが、
扁額は「釈迦如来」と「元三大師」の二つが掲げられていました。
▼境内東の細い道を隔ててもう一つ建物がありました。
「千妙寺」ではなく、別の寺で「安楽院」と記されていました。
千妙寺は隆盛期の室町時代以降は末寺・門徒寺院が700以上あったそうですから、遠方にそびえる筑波山同様、寺としての力は聳えていたのでしょう。
とすると、この安楽院もきっと「千妙寺」の末寺なのでしょう。
綺麗な境内に小じんまりとした本堂が美しいのですが、御朱印対応はないようです。
「千妙寺」には花は一つも見つかりませんでしたが、こちらは桜の花などが色を添えています。
千妙寺境内に戻ります。
▼「三昧流灌室」の石碑は意味不明です。
三昧流とは天台密教の流れの一つのようです。
「灌室」とは灌頂(かんじょう)を行なう場所を言うそうですが、ますます訳わかりませんが、
天台宗のある教えを授けることを許された寺だったのでしょう。
仏教は歴史も長く、宗派、その教え、流れなど、知れば知るほど奥深い未知の世界に巻き込まれます。
だから未知で無知なエリアには御朱印収集者は深く突っ込まないのが正解でしょう。
東京池上の「微妙庵」で、
「妙」は「言いようもなく優れている様子」という意味を知りました。
そして、ここ「千妙寺」は
小石に書写された千部の妙典(妙法蓮華経)が寺境内に埋められているそうです。
寺の名称はそこに因むそうです。
地蔵菩薩が建つ庭園は、9月後半には彼岸花、曼珠沙華で赤く染まり「花の寺」面目躍如となりそうです。
境内は監督らしき大人のもと、数人の子供たちが伸び伸びと走り回ったりして遊んでいました。
本来の寺の姿とも言えるかも知れません。
広重の描いた絵には度たび遠景に筑波山が表れます。
そこでは広重が描いた対象と筑波山の位置関係がよく分かります。
▼寺の境内から見える筑波山は東の方向に見えました。
千妙寺の地理的位置を記憶しました。筑波山の西です。