▼久里浜八幡神社の御朱印です。(神奈川県横須賀市久里浜2-17-9)
いつものように正式名称は「はちまんじんじゃ」です。
御朱印は巴紋に葵の紋、他の文字はやさしく読めるのですが、
中央の神社印の下、2行にわたる11文字は何の事なのかわかりません。
「酒」の文字が2つ使われています。
「爾」「我」「酔」「里」など個別に読める文字はあるものの、全体の読み・意味は残念ながらお手上げです。
--------------------------------------------------------------------------------------
▼当社へは「京急久里浜駅」から徒歩5、6分というところでしょう。
個人的には土地勘や知識がないと言っても良いレベルの街です。
しかし、由緒書きによると当社や近隣から弥生式土器が出土していることから、古墳の点在が確認され、前方後円墳も発見されているそうです。
古くから稲作が行われ、当社の鎮座するこの地域から丘陵地帯が生活の中心地だったようです。
禅寺などの山門前には「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」と刻まれた石柱が掲げられていることが多いのですが、
▼当社では堂々とした石柱に「於社中殺生禁断」と刻まれていました。
境内は神域ですので、文字の意味は説明するまでもないでしょうが、神社前でこの文字は初めて目にしました。
弥生人の稲作は行われていたかもしれませんが、もともとは低地は川と海が混在する湿地帯だったので人はあまり住み着かない地域だったそうです。
そこへ幕末、ペリーがやってきて、米国からの親書を渡される地となっています。
当時は珍しくもない漁村だった久里浜ですが、大人数のペリー艦隊が上陸するには都合の良い浜が存在したので選ばれたそうです。
応神天皇を祭神とする神社の創建は720年(養老年間)と伝わります。
江戸時代には家康から始まる歴代将軍から朱印状を受けているそうで、そんな関係からいただいた御朱印にも葵紋が押されているのでしょう。
地元の氏子神社らしく境内は「勤労感謝の日」、また新嘗祭でもありながら、ほぼ閑散としていました。
それでも「七五三」「稲荷社」のノボリや、国旗が賑やかさを演出していました。
ごく少数の参拝者しか見当たらなかったのは、夕刻近かったからかもしれません。
▼狛犬は風雨にさらされてはいるものの、それほど古いものではないでしょう。
▼拝殿に掲げられた扁額「八幡宮」の文字は、太政大臣三条実美(さんじょうさねとみ)の筆から起こしたものだそうです。
公卿の三条は尊攘倒幕派の中心的人物で、明治以後は政治家になっています。
伊藤博文が三条を評するに
「公は学問もなされて、歌は中々善く詠まれた。殊に筆跡は頗る見事なもので、雲煙飛動の妙を備えて居られた。是は種々の書風を習われて、終に一家を成されたのである」
としています。
しかし、掲げられた額の「八幡宮」の文字を見ると「頗る見事」さはよく分かりません。
書も絵画も鑑賞する人間により、好き嫌い、印象深さ、感動などが異なるのは当たり前のことでしょう。
▼本殿。
▼境内には日本の稲荷社を代表するような「豊川」と「伏見」の二つの稲荷社が鎮座します。
▼キツネたちもそれぞれ個性を発揮しています。
▼現代的な造形をしています。
▼昔日に無数にあった稲荷社の姿の多くは、こんな祠だったのでしょう。
▼伏見社は同じ石の祠ながら新しい造立のようです。
▼いたずらっ子ぽいステキなツラ構えです。
▼「猿田彦」も祀られています。
▼小高くした石山の上に鎮座するのは珍しい名称の「海軍工作神社」。
戦前に海軍の工作学校内にあった神社を、学校関係戦没者の慰霊のために遷宮、新設されたそうです。
「工作」と行っても、小学生の夏休みの工作ではありません。
当時の名称ですので諜報活動、いわゆるスパイ活動を示す言葉なのでしょう。
「日本書紀」が完成した創建年以来の歴史とともに、
大戦前後の歴史も集まるのが神社なのでしょう。