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御朱印迷宮

関東を中心とした寺社の御朱印記録です。参拝・収集目的に少しでも役立てば幸いです。

初音森神社の御朱印(東京・中央区、墨田区)〜浅草橋「儀式殿」から隅田川を渡って 千歳「本社」へ

初音森神社御朱印

はつねもり じんじゃ主祭神:宇迦之御魂神(東京都墨田区千歳2-4-8)

 

初音森神社御朱印です(「神無月」2022年)。

初音森神社御朱印です(「如月」2020年)。

初音森神社御朱印です(「通常」2020年)。

▼2022年、東日本橋儀式殿」に張り出されていた御朱印案内。

兼務社墨田区千歳「江島杉山神社」の御朱印も案内されていました。

 

▼儀式殿前に用意されていた書置き御朱印は限定と通年の2種類。

御賽銭箱にお納め下さい」と書かれていますが、週末は2階の儀式殿の扉は閉まっていて、周囲を見回しても賽銭箱は見つかりません。

▼1階のこの賽銭箱に納めさせていただきました。

 

▼初音森神社の「本社」は隅田川の東岸に鎮座し、馬喰町にあるのは「儀式殿」。

本社と儀式殿は隅田川を挟んで、直線距離で1kmほど離れています。

 

御朱印をいただけるのは東日本橋の儀式殿です。

▼儀式殿に初参拝時の記事です。

この記事は内容的に間違っていた記述もありますので、

▼儀式殿については「おさらい」ということで見直しです。

▼ビジネスビルの1Fと2F 使用している儀式殿ですが、「初音森ビル」と名付けられたビルは神社のものなのでしょうか?

東京都心部の神社はマンションになっていたり、ビジネスビルや駐車場、幼稚園などになっていたりで、どこまでが神社所有のものなのか、よく分かりません。

▼1階の道路に面した小さな社殿は、前回記事では稲荷社と勘違いしていました。

勘違いした理由は簡単で、神狐が置かれていたことでしたが、当社はもともと「初音稲荷神社」だったのです。

社のHPによれば、墨田区千歳の「本社」に対して「儀式殿」は「外宮」と表現されているので、

歩道に面したこの小さな社殿は、境内社の稲荷社ではなく、言わば「外宮」の「里宮」なのでしょう。

神社前を行き交う人の参拝用に便宜上置かれている社殿かもしれません。

 

▼2Fに上がる途中に「名馬 三日月」像は家康の愛馬だったそうです。

▼2Fに上がれば同じく小さい社殿の「外宮」の「本社」もしくは「奥宮」が鎮座しています。

ややこしく本社、外宮、里宮、奥宮という言葉を並べてしましましたが、あまりその関係を深く考える必要はないでしょう。

無邪気に「ここに神社がある」「お参りしよう」でイイのでしょう。

カワイイ神狐たちもメンドークサイことは考えず、詳細は知らなくても単純に素直に参拝してくれる人たちを歓迎してくれることでしょう。

▼週末は扉が閉められている儀式殿、神殿です。

▼ビルの1Fには出入り可能です。

▼しかし「資料館」はやはり週末はちおじられています。

▼通路には神社にまつわる説明などが展示されています。

▼初音森神社の本社へは地下鉄「森下駅」から徒歩5分ほど。

日本橋の「儀式殿」から両国橋を渡って歩いても15分くらいでしょう。

▼初音森神社の簡単な説明板が建てられています。

鎌倉時代中期の創建で、馬喰町初音の森の鎮守でしたが江戸時代の明暦の大火後に現在地に遷座されています。

氏子たちは隅田川を渡って参拝していましたが、その不便解消のため、昭和に入って元の鎮座地東日本橋に分社(儀式殿)が建てられたと説明されています。

初音」とは鶯の美しい鳴き声を表し、かつては鶯が多く住んでいたそうです。

日本橋の当地がまだ馬喰町と呼ばれる江戸時代前の話なのでしょうか?

創建は、花山院師賢(かざんいん もろかた)によって稲荷大明神が祀られています。

花山院師賢は、太政大臣 藤原師賢のことで、諡号は「文貞公」。

後醍醐天皇に重用され側近 師賢は都から下総に配流され、当地で亡くなっています。

▼その廟は小御門神社にあります。

つまりは小御門神社に祀られている文貞公は、初音森神社の創建者でもあります。

神社はどこで繋がっているか予想もつきません。

 

▼手水鉢は乾いていましたが、蛇口を回したら水が出て清めることができました。

神社は小さな境内で、氏子地域は隅田川西岸の東日本橋となれば、ここの普段は静かなのも当たり前でしょう。

氏子たちの多くは参拝には近くの儀式殿に向かうのが自然かもしれません。

狛犬は江戸時代の建立ですが阿形だけ。吽形は火災などの事故で失われたのでかもしれません。

▼初音森神社の本社はコンクリート製でシンプル、コンパクト。

当時の江戸市中から「川向こう」へ遷座させられた寂しさが伝わってこないでもありません。

明暦の大火と両国橋架橋の年代を調べると、遷座させられた当初は両国橋もまだ完成前だったはずです。

となれば当初は舟の「渡し」で、人々は当社と氏子地域を行き来したことになります。

幕府の命とはいえ、氏子たちは地域に社殿がなくなり、橋もない川向こうに移されたことに、さぞや悔しがったに違いありません。

▼合祀されている「寶録稲荷神社」の社号標。

▼忠魂碑は「公主嶺陸軍病院」の文字がありました。

▼「ここに来て聞くそ嬉しき葛飾の初音の森の鶯の声」田部廼庵稲丸の歌碑。

▼幟立石は氏子地域の「馬喰町」の地名が刻まれています。

▼「安政」などの文字が読み取れます。

▼「文?」読めません。文久? 文政?

▼アイボーが見当たらない「ぼっち」くん。

 

江戸の都市計画のため、氏子地域と社殿鎮座地が隅田川で分断された状態が長く続いた神社は、近年になって元の「初音の森」に儀式殿ができ、

氏子たちも「ヤレヤレ」と胸をなでおろしたのかもしれません。

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