矢先稲荷神社の御朱印
「やさき いなり じんじゃ」主祭神:倉稲魂命(東京都台東区松が谷2-14-1)
2023年は22年に続き朱印帳に丁寧な直書きをいただいています。
23年元日にいただいた唯一の御朱印となりました。
▼矢先稲荷神社の御朱印(2023年)。
▼矢先稲荷神社の御朱印(2022年)。
右上のスタンプは「浅草三十三間堂跡」。
右下は神社名ゆかりの「的射矢(まといや)」
左下「馬」の甲骨文字は、当社の社殿天井画「日本馬乗史」に由来するのでしょう。
▼矢先稲荷神社の御朱印(2014年)。
2014年の「馬」の甲骨文字の下には「YASAKI」の文字がありました。
▼矢先稲荷神社 「浅草名所七福神 福禄寿」の御朱印(2023年)。
▼矢先稲荷神社 「浅草名所七福神 福禄寿」の御朱印(2022年)。
「浅草名所七福神」の御朱印は、基本的に一年を通していただけます。
▼矢先稲荷神社 「浅草名所七福神 福禄寿」の御朱印(2013年)。
▼御朱印は社殿右手の授与所でいただけます。
▼「矢先稲荷神社」は「かっぱ橋道具街通り」の一つ西側に平行する路地に鎮座。
▼飲食店御用達「道具街通り」の東側にはランドマークの「巨大シェフ」が建ちます。
▼合羽橋道具街から浅草方面への区域には様々なネーミングの店舗があり滑稽です。
▼「かっぱ橋道具街通り」のアーケード下は常時多くの人で賑わっています。
▼しかし「道具街通り」から一歩西に入ると碁盤の目の静かな通りが続いています。
当社の創建は1642年、寛永年間です。
当時、家光が京都の「三十三間堂」を倣って、この地の浅草に「江戸版三十三間堂」を建立しています。
その「三十三間堂」では、弓の腕を上げるための「通し矢」が行われていました。
その「通し矢」の的の先に鎮座したので「矢先稲荷」と名づけられたそうです。
要するに当社はほぼ「三十三間堂」の跡地に鎮座するわけです。
「江戸版三十三間堂」は、深川に移転後焼失していますが、
▼そんな元の三十三間堂の様子が、当社の神楽殿に描かれています。
▼23年元日の神楽殿ではお囃子が奏でられていました。
▼お囃子が終わると三十三間堂の様子を描いたシャッターが降りてしまいました。
▼当社の鳥居を潜ると正面に神楽殿ですが、90度左に向き手水舎で清めます。
▼華やかな花ではなく、緑の葉に囲まれた様子はとても新鮮です。
▼23年は柄杓が復活していました。
社殿などの全ては戦災で焼失していますので、昭和に入ってのコンクリート製の再建。
元日でも無茶混みでなく、かといって寂しくもない数の参拝者でイイ感じです。
広くもない敷地の中で、堂々として立派な再建社殿です。
▼祭神の「倉稲魂命(うかのみたま)」に挨拶をします。
▼神殿内部です。
▼そして、その天井。
乗馬にまつわる歴史上の人物が100枚も描かれています。
神殿内部には馬と人物の名称を記載した一覧表がありますので、それと照らし合わせながら天井を探すと、首を上下すること数知れず、ストレッチ効果も大きいかも。
▼西側に回り込んで本殿の様子です。
▼境内一画に注連縄が張りめぐされた井戸とポンプ。
しっかり水が汲み出せるようです。
水どころか、東京はもっと深く掘れば、どこも温泉が湧き出るのです。
▼さて、当社近くの通りから東方面を眺めると、どこからも Sky Tree が見えます。
▼「かっぱ橋道具街通り」と直角に交わる「かっぱ橋本通り」の夏は、1km以上七夕飾りが連なり、人々がごったがえします。
▼南北の「かっぱ橋道具街通り」と東西の「かっぱ橋本通り」が縦横に交わります。
▼その賑わいの境内を守るがごとくの仁王像とも思われる道具街山門のシェフです。
▼コロナ下では人出も少なく「シェフ」の役割も手持ち無沙汰でしょう。
▼10〜30万円もする包丁類を、欧米のお兄さんシェフたちが当たり前に買い求める隣の店舗で、分相応の掘り出し物の陶器を漁ります。
ついぞ神社より、道具街の楽しさに翻弄されてしまう事まちがいない
「矢先稲荷神社」です。
[2017.05.19-rewrite 2022.04.20/2023.01.03]