2021年の御朱印は書置きでしたが、しっかりした金ラメ入りの和紙に墨書き・朱印されたキチンとしたものでした。
2012年はもちろん1種類しかありませんでしたが、
▼21年は兼務社の「六所神社」を加え3種類の御朱印が用意されていました。
▼御朱印は「神門」脇の「神札所」でいただけます。
御朱印の最新情報が神社のHP【葛飾八幡宮】に掲載されています。
最近では多くの寺社がHPやTwitterなどで御朱印案内しています。
訪問するときは要チェックです。
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▼神社へはJR「本八幡駅」より10分、「京成八幡駅」なら5分も必要ないでしょう。
二つの駅の読みは「ハチマン」ではなく「モトヤワタ」「京成ヤワタ」です。
とは言え「葛飾八幡宮」あっての地名、駅名となっているのでしょう。
江戸時代までは日光街道が千住宿で水戸街道を分岐し、
さらに葛飾区の新宿で成田街道(佐倉街道)に分岐し、
市川宿→八幡宿→船橋宿と続く宿場町でもあった本八幡です。
▼最初に2012年参拝時の写真を3枚掲載です。
3月は確か、午後2時から3時頃だったと記憶します。
「隋神門」から「神門」「拝殿」へと進む中でも参拝者は僅かで、決して賑やかではありませんでした。
▼9年ぶりの再訪です。2021年の神社はどんな様子でしょうか?
▼入口の一ノ鳥居前は国道14号「千葉街道」で、いつも渋滞気味のヒドイ道路です。
▼さらに参道途中に京成線の踏切があり、この遮断機が少々うるさく邪魔です。
車ですと踏切を越え、左奥に進むと神社の無料駐車場がありますが、タイミングによっては踏切あたりから車が繋がっている時もあります。
▼参道途中にある2つの像は、神社とは直接の関係はなさそうです。
大概が地元の実業家なり貢献者です。
やはり男性の像は「浮谷竹次郎」という市川市長も務めた政治家でした。
▼が、こちらはそうでもない?「蒼空へ 自由、愛、平和」記されています。
「大須賀力」という地元の彫刻家の作品のようです。
▼長い参道を進んでくると「隋神門」手前で参拝者はチェックされます。
▼チェックの役目を担うのはこの「お二人」。
▼古そうな狛犬たちに神域に入る許可を得ます。
▼「隋神門」は、かつて神社の別当だった「法漸寺」の仁王門だったそうです。
▼比較的塗りの新しそうな隋神門は、彫刻たちが生き生きとしています。
▼参道はさらに続きます。
▼銀杏並木となっていますので、秋から冬の参道はゴールドに染められるそうです。
ここまでの参道でも多くの参拝者とすれ違っています。
「神門」先の神域でも参拝者が多く見えます。
冒頭に掲げた2012年の3枚の写真とは様相がずいぶん違い、境内は賑やかです。
10年近い時間は日本人の神仏、寺社に対する姿勢をずいぶん変化させました。
現代を生きる人々が心の支えとして神仏を必要とする、信じようとする時代である、その現れかもしれません。
多くの寺社を参拝訪問していて、つくづく感じていることです。
さて「葛飾八幡宮」 の名称「葛飾」は東京都「葛飾区」を示してはいません。
鎮座地は千葉県市川市です。
「葛飾郡」は中世まであり、その区域は広範囲で、現在の東京では葛飾区・足立区・墨田区・江東区・江戸川区が含められ、
隣接する北の埼玉県、東の千葉県、さらには茨城県の古河市や坂東市までの広い区域を示していました。
かなり漠然とした広範囲な区域ですが、江戸時代前までは、田舎であり、何もなかったような地域だったのでしょうから、そんな大雑把な区分けで不便はなかったのでしょう。
そんな葛飾郡に
平安時代、宇多天皇の勅命により石清水八幡宮を勧請して創建されたと伝わります。
武神の八幡宮なので平将門、源頼朝、太田道灌、徳川家康などからも敬われ、
近代では永井荷風や幸田文、幸田露伴、伊藤左千夫たちの文化人にも親しまれたと伝わります。
▼主祭神の誉田別命(応神天皇)はこちらの本殿がお住まいです。
▼拝殿から本殿の横顔は「下総国総鎮守」らしく堂々としています。
▼天然記念物に指定されている「千本公孫樹」は圧倒的な存在感を示しています。
2月のこの時期はすっかり葉が落ちていますが、推定樹齢は1200年と言われています。
▼社殿の右奥に並ぶ「浅間社」を皮切りに、境内社を参拝しながら見ていきます。
富士塚を模していますが、頂上の祠はバックの民家に紛れてしまっています。
▼「八坂社」
▼「尾上稲荷社」。
▼稲荷社の狐はポンチョをまとっています。寒さしのぎでしょうか?
▼「神輿庫」。
▼「御神輿様」として謂れが説明されています。
▼朱の鳥居や橋が際立つ「厳島社」は整備されて日が浅そうです。
さて、参道を戻ります。
▼京成線の踏切からは左手に巨大な近代的と思える形状の建物が目を奪います。
▼千葉街道沿いになる表側に回ると、まるで巨大戦艦は「市川市役所」です。
新庁舎が完成したばかりようです。市川市の裕福さが想像できます。
そんな近代的な建物とは対照的な存在が、
▼千葉街道を挟んで市役所の向かいにある、
一度足を踏み込んだら出てこられないと伝わる神隠しの藪「八幡の藪知らず」です。
以前はもう少し鬱蒼としていて面積も広かったように感じますが、勘違いでしょうか?
いずれにしても昔は宿場の外れでもっと広く、不気味な藪だったに違いありません。
当時から現代に至るまで足を踏み入ることが禁じられている祟りの藪です。
現在も見ようによっては妖気漂う雰囲気を持っている藪は、
平将門の墓とか、水戸黄門が出てこれなくなったとかの言い伝えやフィクションが残っています。
なぜ禁足地になったのかは不詳ですが、当初は何がしかの理由があったはずです。
江戸時代になると様々な文献で紹介され、かなり有名になったそうで、
現代でも道の迷いや、出口を見失ったことを「八幡の藪知らず」と言い慣用句になっています。
▼藪の前に建つ「不知森神社」はいつ建立されたものかわかりません。
▼社の裏の石垣を飛び超えたら「祟り」が降りかかること間違いないでしょう。
様々な伝承や尾ひれのついたおもしろいフィクションとともに、
いつまでも残って欲しい「八幡の藪知らず」です。