▼定額山 浄智院 善光寺の御朱印です。(浄土宗/山梨県甲府市善光寺3-36-1)
この霊場はテレビ山梨が1980年に選定したもので、甲府周辺の主な寺院はすべて網羅されています。
「善光寺如来」とは、本家 信濃善光寺の絶対秘仏の本尊「一光三尊阿弥陀如来」のことを指していると理解してよいでしょうが、
甲斐善光寺では本尊を信濃善光寺へ返した後、新たに本尊が造立されています。
中央の阿弥陀如来の梵字の下の印は、なんでしょう?
鮮明だったとしてもまるで読めません。
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全国には寺の名称が駅名になっているのは多くあります。
また「善光寺」と名乗る寺院も多数あります。
「善光寺」の駅名も、飯田線「元善光寺駅」、日豊線「豊前善光寺駅」があります。
また本家の信濃善光寺近くの駅は長野電鉄の「善光寺下駅」があります。
見上げたものです。
▼その甲斐善光寺の「山門」も見上げたものです。
▼寺標は「甲州 善光寺」となっていますが、「甲府善光寺」と呼ばれることもあるそうです。
1588年、武田信玄により創建された寺は数年をかけて七堂伽藍が整えられたそうですが、江戸時代にすべて焼失されています。
現在の「山門」「金堂」もその後に、同じ江戸時代の1796年に再建されたものです。
ことの起こりは戦国時代、信玄と謙信の川中島の戦いです。
1555年、二人の戦いが終結した時、信玄は善光寺本尊の阿弥陀如来像や寺宝を甲斐国に持ち帰っています。そして甲斐善光寺の造営が始まっています。
しかし川中島の戦い終結時には謙信も善光寺如来や寺宝を越後へ持ち帰り善光寺如来堂を建立しているとも伝わります。
どちらが本当の本尊を持ち帰ったのかは分かりません。
戦火、兵火の難を避けるためとも、自国領民のさらなる支持を獲得するためとも言われています。
持ち帰ったというより、僧侶たちも従っていますので移転とも言えます。
甲斐の領民は熱狂して歓迎したとも伝わります。
しかしその後、信濃善光寺本尊は、流浪のごとく安置場所を転々としました。
信長・家康連合軍により武田氏が滅ぼされると、本尊は美濃岐阜に移されます。
さらに尾張清洲→三河吉田→遠州浜松を経て家康により甲斐に戻されます。
ところが
京都では秀吉の方広寺大仏が地震により倒壊すると、大仏の代わりに善光寺如来が再び甲斐から京都へ移されます。
さらに秀吉が病に倒れると、善光寺如来の祟りを疑い、1598年にやっと故郷の信濃善光寺へ戻されます。
本尊善光寺如来は40年以上、戦国武将たちにより安住の地を追われ、その居場所を転々とさせられた事になります。
▼甲斐善光寺の山号は信濃善光寺と同じ「定額山(じょうがくさん)」です。
▼荼枳尼天さえ、そんな本尊の運命は見えなかったに違いありません。
全国にある他の善光寺とは、その歴史が異なる甲斐善光寺でした。
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