別名ぼたもち寺(牡丹餅寺)も古くから見開きの和歌を御朱印としています。
訪問時の2013年は年配の女性に丁寧に揮毫していただきました。
現在もこの形で授与されているのか定かではありません。
最近の街中の書店の御朱印紹介本でも掲載されているので、おそらく継続して授与されているかもしれません。
「これやここ ほうなんのそしに はぎのもち ささげしあまの すみにしところ」
日蓮の法難エピソードにちなむ歌ですが、字余りの箇所もあるものの一応、
五七五七七になっていますので和歌と言っていいのでしょうか?
それにしても女性の丁寧な説明がなければ、とても読めるものではありません。
▼日蓮宗寺院ですので御首題もいただけます。こちらは何とかすべて読めます。
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▼鎌倉駅からゆっくり歩いても、10分ほどで到着します。
▼大町の住宅街にある小さな寺です。
鎌倉駅から東へ若宮大路を横断して、平行する小町大路のさらに1本先の細い通りに面して山門が開いています。
北鎌倉や鎌倉駅前、小町通りから八幡宮周辺の喧騒とは違い、この辺りはウソのように静寂に包まれた街並みが続いています。
少ない人の往来と、小さな寺社は点在していますが、観光的な寺社はなく、これらの寺や神社を訪れるのは、ほとんどが御朱印を求める人たちのようです。
ところで御朱印にはスタンプで日蓮の法難が「文永八年」とあります。
日蓮が佐渡に流された鎌倉時代1271年ですが、1274年には「文永の役」が起きています。いわゆる元寇です。
鎌倉幕府も北条氏の台頭により執権政治にとって変わってた頃で、このころ円覚寺はまだですが、建長寺はすでに創建されています。と言っても伽藍はまだ整っていなかったかもしれません。
そんな武家政権が確立さて久しい鎌倉時代の都市の様子はどんなんだったのでしょう? 全く想像もつきません。
▼しかし、幕末から明治期の若宮大路はこんな様子だったようです。
写真は長崎大学のデータベースからお借りしました。
ぼたもち寺は、この写真のず〜っと右手前になります。
中央遠方の八幡宮から段葛が続き、左右の家並みは茶屋や土産物屋なのでしょうか、すべて茅葺きです。
人の姿が写っていないせいか、モノクロの写真に音はなく静けさが漂っています。
幕末から明治になって150年ほどです。
▼その時期でさえ、現在の若宮大路と比べると想像を絶しています。ましてや、さらに600年遡って750年前の鎌倉の都市の姿など、誰も描けられないのが当たり前なのでしょう。
きっとぼたもち寺も、静けさだけは今と大きく変わらぬ、茅葺きの小さな庵のような佇まいだったに違いありません。