自由が丘 熊野神社の御朱印
「くまの じんじゃ」(東京都目黒区自由が丘1-24-12)
書置きでした。
下の2014年と比較すると神社印も替わり「宮司之印」も無くなっています。
さらに「緑が丘」の文字が加えられ、自由が丘と併記されています。
当然、朱印帳に直書きで、2014年にしてはカラフルなものでしたが、
カラーも3色に抑えられた品のある御朱印でした。
▼授与所には御朱印案内が1種類しか出ていませんでしたので、現在は月替り書置きのみという事のようです。
▼「自由が丘駅」から歩くと3、4分でしょう。
神社の裏あたりになる場所に駐車します。
▼パーキング前にいかにも「自由が丘」然とした建物。
自由が丘にお住いの「おイヌさま」御用達のShopのようです。
ヨーロッパ的と言われた自由が丘は、今や庶民派の街でもあるようです。
東横線が開通する前のその昔は、竹藪に谷と畑しかなかった土地で「衾町(ふすままち)」と呼ばれていました。
1929年に新しい「九品仏駅」が開業されたことから
「旧九品仏駅」は地名の「衾駅」に改称することとなったものの
地元民の声は「古臭い!」
ということで「自由ヶ丘学園」も開校し、新しく地名の通称としても定着しつつあった名を採って「自由ヶ丘駅」と改称したそうです。
街としては「何が自由」なのか知りません。
声高な「自由」を選んだのは、それまでが不自由だったからでしょう。
何れにしてもいろいろなアンケートで「住みたい街」の上位にある街です。
「丘」と言っても周囲の地理と比較すると高くない地域で、
▼その谷底になる駅方面への「カトレア通り」は、よく見ると人で埋まっています。
ここを左折すると神社前に出ます。
▼ちょっと有名なcaffeが右手に見え、店の前は人が憩っています。
▼社頭横には「庚申塔」が境内にビルトインされるように立ちます。
▼自由が丘駅から3、4分でこの森が現れるのは街のイメージからして奇跡的です。
商業・住宅地域のど真ん中にあっても、神社だからこそ神域としての森が守られてきたのでしょう。
さすが、かつての竹藪は残っていないと思われますが・・。
▼石造りの二つの鳥居の先に三之鳥居は朱色の四脚門。
▼右手に見える像は「栗山久次郎翁」。
旧碑衾村の村長にしてこの地域の貢献者は「自由が丘誕生の祖」と顕彰されています。
▼参道から境内に続く石段下の狛犬はNew Styleでちょっとコミカル。
比較的新しい造りのようです。
▼以下2枚の写真は2014年秋。「七五三」のノボリが立てられていました。
▼2021年も社殿の様子に変化はなさそうです。
2014年と異なるのは参拝者が全てマスクをしていること。
それにしても自由が丘の街中とは思えない緑の多い中に朱色の拝殿が輝いています。
▼「手水舎」も含め、境内の建物はすべて昭和の戦後に建てられています。
▼社殿前の狛犬も古さを感じさせない新しい様式のようです。
▼社殿はコンクリート造り。
創建不詳、主祭神は「速玉之男尊」。
熊野信仰は平安の天皇・貴族から始まり、鎌倉の武士、そして一般民衆へと広がっています。
全国に分布する熊野神社は、その熊野信仰の最盛期までに創建されたものが多いのでしょう。
▼拝殿横からの様子です。樹木に覆われて本殿の様子はわかりません。
▼神輿庫も中は見えませんが、綺麗に朱に塗られた扉が並びます。
▼拝殿右隣の「稲荷社」も木々に覆われています。
▼境内社としての「稲荷神社」にしては立派な造りです。
▼奉納額はかろうじて「明治」の文字が読み取れました。
当時は、敷物らしきものがあるとしても稲荷社に「正座」して祈ったのでしょうか?
▼「当たり前でしょ!」と叱られそうな顔つきです。
▼「怪しい人間!」と、こちらからも怪訝そうな顔で睨まれます。
▼たとえ狛狐に叱られたとしても「ガマン」です。
▼しかし、水盤を四隅の下から担ぐ、この発想は一体どこからやってきたのか、いつも不思議です。
▼稲荷社と同じ壇上に「忠魂碑」です。