三芳野神社の御朱印
「みよしの じんじゃ」主祭神:素盞男尊(埼玉県川越市郭町2-25-11)
「通りゃんせ発祥の地」と書かれています。
中央の朱印は「武蔵国入間郡河越初雁城内三芳野天神社之印」で初雁城は川越城の別名です。
御朱印の日付入れはセルフで入れました。
▼日付のない書置きは授与所に用意されておりました。
兼務本社の「川越氷川神社」でも御朱印をいただける案内も出ていました。
▼当社は「川越氷川神社」から徒歩数分の距離に鎮座します。
当社の鎮座地住所は「郭町(くるわまち)」になっていて、太田道灌が築城した川越城の本丸があったエリアです。
「郭」は「曲輪」とか「廓」とも書きますが、城や砦の周りに築いた土塁や石垣、堀などで囲まれた区画や地域を示す場合は意味的には同じでしょう。
たとえば、江戸時代の吉原遊廓(ゆうかく)の場合は「おはぐろどぶ(御歯黒溝)」で囲まれていました。
▼神社に向かう途中でこんなところがありました。「川越城田曲輪門跡」。
▼その先はこんもりとした山に階段が設けられています。
階段上は「川越城富士見櫓」があったところで、現在は「浅間神社」があるそうです。
階段を見たら登るのがルールですが、ここは目的地とは違うのでスルーでした。
▼さらに地図を見ていると「三芳野稲荷神社」があり、行ってみました。
ここも城内だったのでしょう。
でも江戸時代ではこんな姿ではなく、もっと小さな祠で、神社とは呼ばずに単に「お稲荷さん」だったはずです。
▼分かりやすい川越城の見取り図を「カワゴエール」さんから写真をお借りしました。
見取り図の右下の部分に目的の「三芳野神社」があり
「富士見櫓」や「天神門」などの文字も見られ、確かに住所表示の通り、
川越城「曲輪内」です。
▼寄り道しながらやっと「三芳野神社」表参道に到着です。
▼平安時代のフィクションで、同時代の貴族、歌人 在原業平(ありわら の なりひら)の物語であるとされる「伊勢物語」で歌われています。
「わが方に よると鳴くなる 三芳野の 田面の雁を いつかわすれむ」伊勢物語。
「私に心をよせられているという、三芳野の里で私をたよりにしているお嬢さんを、
いつの日にか忘れてしまうでしょうか。忘れることはありません。」
というような意味だそうです。
伊勢物語はフィクションですので、在原業平は東下りはしていませんが、
入間の郡みよし野の里は川越の旧地名という説があるそうです。
▼入口からまっすぐに続く長〜〜〜い参道です。
参道の中央は歩きにくく、両サイドの踏み石を進むことになります。
もとより参道の中央は「神の道」なので、これが正しい参道なのでしょう。
そして御朱印にも書かれているように、
▼この参道がわらべ唄「とうりゃんせ」の発祥の地とされています。
三芳野神社の当時は「お城の天神さま」として親しまれていたそうですが、
城内にあったため、一般庶民は普段は訪れるすることができず、
参拝できたのは年一度の大祭や、七五三の祝いの時だけでした。
そんな中でも警備は厳しく、複雑な城内の「天神さまの細道」を何とか抜けて、
お参りできたものの、帰りには迷ってしまう者もいたとか。
そんなことから「行きはよいよい 帰りはこわい」と庶民に歌われたそうです。
▼シンプルな手水舎で清めたら、いよいよ拝殿です。
▼祭神は素盞男尊、奇稲田姫命と、菅原道真、誉田別命も祀られています。
創建は平安時代初期とされ、その後の川越城築城により城内「天神曲輪」に位置することになったそうです。
のちの時代、家光の命による川越藩主の社殿造営、さらに家綱の大改造などの手が加えられた時代を経ながら残っているのが現社殿です。
さらに平成に入って改修が施され、元の美しさが蘇ったそうです。
▼東照宮でもないのですが、家光好みの贅沢な華麗さが垣間見える社殿です。
▼緑を背景として権現造の社殿が朱色を美しく浮き出しています。
▼拝殿前に境内社が競うように向き合っていて、左側は「大黒社」。
▼反対側の右手は「蛭子神社」。
▼さらにその奥の「稲荷社」は、三芳野神社イチバンのミステリアス空間でした。
川越城は別名初雁城とも呼ばれていたそうで、その名称は
▼この「川越七不思議」のなかの「初雁の杉」という話に由来するそうです。
川越市内にある神社でも、中央街区に鎮座する熊野神社や川越八幡、また
当社の近くの氷川神社は人気で常時数多い訪問者に圧倒されますが、
そんな神社とは異なる佇まいの三芳野神社は、参拝者の姿もマバラで、
「通りゃんせ」の成り立ちや、場内にあった天神様の歴史を感じ取ることができる素敵な空間でした。