▼幽香山 梅蔭禅寺の御朱印です。(臨済宗妙心寺派/静岡市清水区南岡町3-8)
御朱印中央の墨書きは「南無願王佛」ですが、意味不明です。
あるサイトによると「願王」とは、
「仏・菩薩の願の根本をなす願」という意味だとの説明がありました。
「願の根本をなす願」と言われても、さらに分からなくなります。
梅蔭寺の正式名称は「梅蔭禅寺」で、本尊は「釈迦牟尼仏」。
従って、禅寺でいただく御朱印によく見かけられるように「南無釈迦牟尼仏」と書かれていれば理解できるのですが・・。
御朱印下部に押された四角い御朱印には「清水二十一ヶ所 十四番札所」の文字が読め、
右上には地蔵菩薩らしきスタンプも押されています。
「清水二十一ヶ所」霊場は情報が全く掴めず、活動していない霊場のようですが、
もしかしたら地蔵菩薩霊場で、いただいた御朱印はその「十四番札所印」ということなのでしょう。
「願王地蔵」とか「願王菩薩」という言葉も見つかりますので・・。
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▼梅蔭寺のある「清水区」は、旧清水市のほぼ全域となっています。
その市街地に建つ梅蔭寺は、観光的要素も持っているので広い駐車場を設けています。
▼開創は室町時代から戦国時代へと移る1492年とされていますので。古い歴史を持つ梅蔭寺です。
しかし、寺の外観にその古さを見つけ出すことはできません。
寺務所・庫裏などが一体となっているのでしょうか、大きな本堂は建てられて時の浅そうなピカピカ状態です。
この寺が有名で観光的要素も備えているのは、
御朱印のスタンプにあるように「東海之狭客 清水次郎長 菩提所」であるからです。
幕末から明治にかけての代表的狭客が清水次郎長(山本長五郎)で、
他にも名の知れた狭客の墓は全国に見られますが、
狭客と言っても、博徒であるその姿は漠然としか思い浮かびませんし、
次郎長も読み物や映画・ドラマでの中でしか詳しくは知りませんでした。
博徒といえば博打を生業とし、単純に現在の反社会的勢力と解釈したくなります。
しかし「狭客」は「強きを挫き、弱きを助ける任侠を建前とした渡世人」と解するそうです。
狭客・任侠・渡世人などは現在ではほとんど使われない言葉ばかりで、やはり漠然としたものが残ります。
▼そんな「狭客 清水次郎長之墓」の書は「武揚」と彫られています。
幕臣「武揚(ぶよう)」=「榎本武揚(えのもとたけあき)」が、
次郎長の墓碑銘を記しているのは、咸臨丸との関わりがあり、次郎長が唯の狭客でなかったことも示しているのでしょう。
維新後は山岡鉄舟などの要人とも繋がりの深かった次郎長の晩年は、実業家・慈善家としての顔も持ち、その功労が認められ後に銅像も造られているそうです。
その半生は wiki などでも詳しく載っていますので、知ったかぶりはやめてミーハー的な話にしましょう。
▼次郎長の子分であった「大政」「小政」の墓も並んでいます。
清水出身の知人が言うには、
元清水一家の居住宅周辺の開発で、土が掘り起こされ時には正体不明の殺されたと思われる人骨がゴロゴロ出てきたそうです。
話の真偽は定かではありませんが、清水一家の一面を見れば、尤もとも思われる出来事だったそうです。
wiki に、もう一つミーハー的な話載っていました。
1966年に清水次郎長の五代目の「正統清水一家」が解散後途絶えていた名跡を、2007年に山口組系二代目美尾組組長が「六代目」として襲名発足しました。
静岡市暴力追放推進協議会は、闇金融の元締めだった人物が清水次郎長の跡目を襲名するのは、清水の観光客減・イメージ悪化につながるとして清水警察署に継承阻止の要望書を送ったものの功を奏さなかったので、
観光協会とみやげ物店の中には、
次郎長グッズを販売中止した店があり、観光への影響が出たそうです。
次郎長が1893年に73歳で亡くなって100年以上を経た現代でも、
まだ世の中の話題をさらう存在でもある次郎長の菩提寺 梅蔭寺の訪問でした。