七社神社の御朱印
「ななしゃ じんじゃ」(東京都北区西ケ原2-11-1)
主祭神:伊邪那岐命、伊邪那美命、天児屋根命、伊斯許理度賣命、市寸島比賣命、仲哀天皇、応神天皇
右下の福禄寿のスタンプが渋沢栄一に変わっていました。
▼七社神社の御朱印(2021年)。
左上のスタンプの文字は「御衣黄」は「ぎょいこう」と読み、桜の品種の一つ。名前の由来は、咲き始めが貴族の衣服の萌黄色に近いためと言われています。
拝殿の左右で同じ八重桜の「御衣黄」と「福禄寿」が咲くそうです。
▼七社神社の御朱印(2018年)。
▼21.06現在、御朱印は直書きいただけます。
▼御朱印は社殿左手奥・・・
▼この授与所でいただけます。
▼同じく社殿左手のここではありません。ここは祈願受付のみ。
▼神社案内は3年前にそこそこ詳しく記事にしていますので・・・
▼今回はサラッと・・。目印の一里塚はもちろん変化なし。
2度目の訪問ですが、初回からもう3年が経ってしまいました。
▼一の鳥居の先に「ヤマボウシ」が満開でした。名称は知る由も無いので調べました。
▼夏越しの大祓「茅の輪」ができていました。
▼神社境内の大きな変化は・・・
▼この方がいらっしゃった事です。「チャップリン」ではありません。
2024年に福沢諭吉に引退願い「壱萬圓」札の新たな顔となる方です。
▼そのタイミングに合わせたNHK「青天を衝け」が放映中ですが見ていません。
今回の大河ドラマは見ていなく、あまり興味もないのですが様子だけのぞいてみることにします。
▼「舞殿」近くの小さな鳥居から境内を出ます。
飛鳥山公園に突き当たった道を右に下ります。
▼ここから王子駅方面に「飛鳥の小径」が始まります。
「飛鳥の小径」と言っても奈良の飛鳥・明日香とは何の関係もありません。
「飛鳥山公園」にちなむ名称でしょう。
その「飛鳥」の地名由来は、この地の豪族豊島氏が居城の守護神として熊野の飛鳥明神をここに勧請したことによるそうです。
その「小径」は、京浜東北や東北・山形・北陸新幹線など、東京と北の街をつなぐ数路線もの鉄道と、飛鳥山から降る崖の間の「小道」です。
アジサイの時季以外は「飛鳥の小径」は、ただの「細道」になります。
6月13日は八部咲きといったところかもしれません。19、20日頃は満開でしょう。
それにしても細い道に大勢の人出。プロカメラマンとモデルらしき人々も・・。
もっとも最近はシロートでも思いっきりポーズを取るので、プロ・アマの区別がつかない時があります。
まぁ、撮る側と撮られる側の雰囲気で分かるようなものですが・・。
早くも浴衣姿の女子たちも満開です。
▼鉄道陸橋上から遠望して見ました。
▼やはり全体では7、8部咲きということでしょう。
▼小径の途中から飛鳥山公園に登ります。
▼子供づれのグループがすごい数でした。
「飛鳥山」は江戸時代、将軍吉宗の寄進によって上野、向島に次ぐ桜の名所とされています。
お江戸「日本橋」から2里と少し。
江戸に暮らした人たちにとって、歩いてもどうってことはない距離。
十分日帰りで桜を楽しめたことでしょう。
都電やSLの保存車が展示されています。
▼「紙の博物館」は過去に一度だけ入館したことがあります。紙の種類や用途、歴史などが学べます。
王子には「お札と切手の博物館」など紙に関するスポットがいくつかあります。
それもそのはず、王子は「洋紙」の発祥の地でもあります。
明治時代に「抄紙会社」が設立され、この会社がかつての王子製紙の前身。
輸入に頼っていた洋紙の国産化を企図して、実業家の渋沢栄一が中心となって王子に工場を設立されています。
渋沢栄一は37歳の時、ここ飛鳥山に別邸を構えて、晩年は本邸として91歳までここ飛鳥山でその生涯を過ごしています。
深谷に生まれた渋沢は生涯に500の企業に設立に関与したと伝わります。多くの教育や社会事業にも携わり、日本の一時代を導いています。
「壱萬圓」札の顔となるのも、もっともな事かもしれません。
さらに彼は「七社神社」の氏子でもありました。
神社もしばらくは多忙になるかもしれません。
というような背景で「渋沢✖️北区」の副題とともに「飛鳥山博物館」で開催されている「大河ドラマ館」という訳です。
どこも入館しません。
▼「1万円札印刷所」???
▼自分の顔が1前円札になる「なりきり」のようです。自己顕示欲豊富な人向け?
▼公園内に「兜稲荷社跡」。
1897年にここに移築され、基壇部、灯篭のみが当時のものだそうです。
日本橋兜町に「渋沢栄一邸宅跡」があり、その近くに「兜神社」が鎮座します。
▼飛鳥山「兜稲荷社」と日本橋「兜神社」は繋がりがありそうです。
▼「青天を衝け」の主人公たちもアニメ風ないイラストにされると、皆同じ容貌になります。