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御朱印迷宮

関東を中心とした寺社の御朱印記録です。参拝・収集目的に少しでも役立てば幸いです。

磐井神社の御朱印(東京・大田区) 〜新しく「笠嶋辨才天」の御朱印もいただけます

磐井神社御朱印

いわい じんじゃ主祭神応神天皇ほか(東京都大田区大森北2-20-8 )

 

磐井神社御朱印です(2022年)。

磐井神社御朱印(2018年)。

磐井神社御朱印(2014年)。

 

境内社 笠嶋辯才天御朱印(2022年)。

 

東海七福神 弁財天御朱印(2014年)。

同じ「べんざいてん」ですが、22年は「辯才天」、14年は「弁財天」となっています。

 

御朱印は社殿横、社務所受付でいただきました。

▼通常、3種類以上の御朱印がいただけるようです。

御朱印のタイムリーな情報は「磐井神社 twitter」などでご確認ください。

 

磐井神社」については過去記事にしています。

しかし神社の紹介はわずかな文字数で、賑やかになった御朱印の話と、それにまつわる記事だけで終わってます。

それも、神社に対して少し失礼な内容だったかもしれませんので改めて記事にします。

 

▼JR「大森駅」から歩いても10分強、京急大森海岸駅」なら徒歩4、5分です。

磐井神社は国道15号(第一京浜)と、現在は高架になった京浜急行の鉄道に挟まれるような地に鎮座します。

 

▼神社前の北道15号の歩道脇足元に「当神社 重要縁起 磐井」の石碑が立ちます。

▼井戸、いや元井戸の跡です。「磐井の井戸」です。

磐井の井戸」とすると重複表現になるかもしれません。

「磐井」だけでもう井戸、泉など、水を汲む場所を表していると思います。

教育委員会のガイド板によると、もとは神社境内にあったものが国道15号の拡張により、境内が狭められたため現在のような位置に残されているとか。

現在は水が湧いているのか定かではありませんが、いずれにしても飲むことはできないそうです。

しかしこの井戸の名称が神社名にもなり、江戸時代までは東海道を行き来する旅人に「霊水・薬水」として親しまれていたそうです。

飲んで「心正しければ清水 心邪ならば塩水」と言い伝えられていたそうです。

 

東京にも「井」の文字が使われている地名がたくさんありますが、多くは「井戸」や「泉」に由来して使用されている地名が多いようです。

 

▼その井戸と歩道を挟んで対面に「延喜式」と彫られた社号標が立っています。

▼鳥居周りの幟は「七五三」や「七福神」など季節ごとに変えられていて、この日の訪問では「端午の節句」のにぎやかなノボリでした。

境内は鯉のぼりの飾りなども見られました。

▼ひさしが大きく張り出し、どっしりとした手水舎。

▼社殿前の狛犬は左右とも子獅子を抱いています。

▼子獅子は尾っぽ側にもいて、複数の子獅子が親にしがみついています。

数の子獅子を従える狛犬は子宝、安産、円満の象徴として親しまれているそうです。

磐井神社の創建は由緒書きには573年の起源とされていますが不詳でしょう。

いずれにしても式内社ですので平安時代以前です。

延喜式内社の多くは創建年が確かな神社は少ないはずです

長い年月の間に地震や火災などで記録が失われることがほとんどだからでしょう。

当社もその例に漏れず

▼社殿は戦後に再建されています。

▼額には「武蔵國八幡總社 磐井神社」と書かれています。

平安時代初期に「武蔵国八幡総社」に位置づけられたと伝わっています。

また、かつては「鈴の森八幡宮」「鈴ヶ森八幡宮」とも呼ばれていたそうです。

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▼境内北側にある「楽殿」。

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▼神楽殿の隣に鎮座するのは「海豊稲荷神社」。

江戸時代までは神社の前は江戸湾。「海豊」の名称とおり、人々は「豊饒の海」を祈り「豊かな海」に感謝したのでしょう。

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明治期「大森海岸」は海苔の養殖が盛んで、都心から近いビーチ、海水浴場でもありました。

同時期に周辺は料亭や置屋が軒を並べる花街にもなり、1960年代まで続いたそうです。

そんな名残りの名称が玉垣に朱色の文字で刻まれています。

 

▼境内西側に石碑や力石、古い水盤などが並べられています。

現在は非公開で見ることのできない「鈴石」と「鳥石」があったそうです。

▼その鳥の模様のある珍しい自然石「烏石」にまつわる江戸文人の石碑。

f:id:wave0131:20190619173136j:plain鈴石」は打つと鈴のような音がしたと伝わり、また「鈴ヶ森」の地名の由来にもなったと言われています。

そこから「鈴森八幡宮」とも呼ばれるようになったのでしょう。

 

▼「力石」は大公開。この一画は磐井神社の歴史の一部を物語っています。

▼境内は植栽や植木が季節ごとの花などで人々の目を和ませてくれます。

庭師らしき男性が一人黙々と作業をしている姿も目に入りました。

▼樹齢800年、大きなイチョウは夏の匂いとともにひときわ存在感を示しています。

▼境内南にある「弁財天社」の社殿が新しくなっていました。

御朱印をいただいた「笠嶋辯才天」です。「東海七福神」の弁財天でもあります。

▼その社殿の以前は、こんなシットリとした良い風景でした。

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こんな程度に年月を重ねた社殿の方が趣があるのですが、

寺院の建物とは異なり、神社の社殿は常に新しくされ歴史をつないでいきます。

人の好みなどで易々と新社殿を建立できないとしたら、神社の歴史は古代から未来へ連綿と伝えられないかもしれません。

▼古い石柱に「かさ志ま」の文字が読めました。

▼弁財天社が鎮座する島状の周囲は池になっていて「弁天橋」が架かります。

▼社殿が新しくなっても神社一番の景色かもしれません。

▼4月10日のサクラです。日本の桜も品種が増え、開花の時期も様々です。

 

御朱印が人気で、いっときの境内は常に参拝者であふれていました。

現在はその人気も落ち着いて、少しクワイエット!

それでも参拝者が絶えることのない磐井神社でした。

常楽寺の御朱印(川崎・中原区)〜別名「まんが寺」の絵心経

春日山 常楽寺御朱印

じょうらくじ真言宗智山派(神奈川県川崎市中原区宮内4-12-14)

 

玉川八十八ヶ所 第二十六番」の御朱印となりました。

 

お一人で掃除中の女性の手を止めさせて日付を入れてもらい、おマケにお茶までいただきました。

 

▼そしてこの「般若心経」は70cm近い印刷物いただきました。

タイトルが「絵心経」(般若心経画とき)となっています。

江戸時代、主に庶民の文盲のために般若心経の文言を絵で表現したもので、

当時は「(めくら)心経」とも言われていたそうで、同じように

「めくら暦」「めくら帳」「めくら証」などがあったそうです。

現代では「めくら」という表現は適切ではないようです。

 

「釜」の絵が逆さになって「マカ」、物を食べる姿が「空(くう)」などユーモラスですが、

個々の絵にルビがふってあるから読めるものの、絵だけではその読みを覚えるだけで大変です。

 

さらに「絵とき」の下に漢字だけの「心経」が書かれています。

釜般若腹箕田神鏡」これも微妙です。

正確には「摩訶般若波羅蜜多心経」ですから、

易しく普段使う漢字を使用したということでしょうか?

 

耳で聞いて覚えたほうが早いと思われますが、

レコーダーも何もない当時では

僧侶にその都度何回も唱えさせて教わるわけにはいかなかったのでしょう。

 

それにしても面白い「絵心経」でした。

これだけでも別名「マンガ寺」の面目躍如とも言えます。

 

常楽寺等々力緑地の近くで「武蔵中原」からなら徒歩10分以内で着くでしょう。

 

▼駐車場脇からの寺入口には別名の「まんが寺」の大きな石碑があります。

はじめは「がまん寺」と呼んでしまいました。

何をガマンするのかと思いきやよく見ると「まんが寺」。

▼寺は奈良時代行基によって開基されたと伝わり、多くの文化財とともに一帯は当時の庶民の信仰を伝える史跡になっています。

▼入口では大黒天七福神の石像もにこやかな表情で迎えてくれます。

▼その陰に何処かで見た記憶のあるこの姿? 何かの漫画の海賊だったかな?

▼ハイッ、大きく口を開けているのはカエル。

▼綺麗な参道を進んでみます。この道幅がイイですねぇ!

▼途中、六地蔵や不動像などがみられました。

▼寺では夏に「かわさきすず虫祭り」が開催され、鈴虫も配られるそうです。

▼曲がっているから梅の木でしょうか?

▼竹林などとともに綺麗に手の加えられた庭にたくさんの石碑が並んでいます。

▼よく見ると漫画が彫られて作者らしきサインも見えます。

 

▼「本堂」は江戸時代建立のものが昭和になって解体修理され、その時に旧住職と親交のあった漫画家たちのマンガや風刺画が堂内の襖や壁に描かれたことから「まんが寺」とも呼ばれるようになったそうです。

参拝時はコロナ禍に加え住職が留守でしたので漫画は見られませんでした。

いずれにしても見学予約しないと見られないようです。

▼漫画の一つでも見られないかと覗いてみましたがダメでした。

御朱印は本堂左手でいただきました。

 

▼奥から本堂、宝佛殿と続き・・・

▼一番右手に建つのは「薬師堂」。

▼外の道路から薬師堂の正面に突き当たる参道があり、こちらが表参道かも?

▼薬師堂の参道のすぐ東に「春日神」の鳥居と参道があります。

神社の参道の先の境内は常楽寺との境界はなく繋がっています。

常楽寺山号が「春日山」ですので神社の別当寺だったのでしょう。

現在は「宮内春日神」と呼ばれていますが創建は不詳。

平安時代には神社の前身があった記録があるそうです。

住宅街に囲まれた寺ですが、緑も多くとても気持ちよく落ち着ける仏域・神域でした。

 

コロナが治れば再び漫画見学が可能になるかもしれません。

3年目のコロナ禍、長く、しつこく、シブトイ感染症です。

養老寺の御朱印(千葉・館山市)〜安房国札三十四観音霊場 第三十番札所 「観音寺」とも呼ばれる

妙法山 養老寺御朱印

ようろうじ」または「かんのんじ真言宗智山派(千葉県館山市洲崎1331)

 

養老寺御朱印です(2015年)。

御朱印は「安房国札三十四観音霊」第三十番札所の印になります。

御朱印には「養老寺」と墨書きされていますが、正式には「観音寺」のようです。

 

▼養老寺は房総半島の南端、さらに西端に位置します。

と言うより、安房国一宮「洲崎神社」のお隣と言ったほうが分かりやすいでしょう。

 

▼房総半島南端を周遊するような道路「房総フラワーライン」から進んだ寺の参道は、頑丈な、人を拒むようなフェンスが立ちふさがっていました。

寺の看板は「養老寺」、御朱印にも「養老寺」となっているので、この呼び名で良いのでしょう。

フェンスの脇が少し開いていたので果敢に進んで参拝です。

 

▼仁王門の仁王像はガラスケースの中。

ガラスが反射して仁王像は撮影できませんでした。

 

寺は717年(養老元年)に「役行者(えんのぎょうじゃ)」を開祖として創建されたと伝えられることから「養老寺」と呼ばれるようになったそうです。

 

▼本尊の「十一面観世音菩薩」が祀られている観音堂

 

江戸時代までは隣接する洲崎神社の「社僧」を務めていたと言うことですから、洲崎神社の「別当」だったのでしょう。

 

▼掲げられた額の文字は「養老」の2文字は読めても、後の2文字は読めません。

▼境内奥の小高い位置に石窟、岩窟?があります。

開祖「役行者」の石像が祀られています。

役行者」は実在した人物と言われていますが、海上や空中を歩く神通力を持つなど、様々な伝説が多く残っている不思議な修験者です。

まさかの海上や空中を歩いたと伝わることから、ここにもワラジなどの履物が奉納されています。

石橋山の戦いで敗れ安房に逃れた頼朝伝説は「洲崎神社」に残りますが、別当だった当寺にも頼朝伝説はしっかり伝わっています。

さらに勧善懲悪、因果応報の物語「南総里見八犬伝」に登場するのが、この岩窟です。

 

とは言え、伝説と創作の物語は同じシーンがあちらこちらで複数に伝わり残ります。

真実と物語の狭間で伝わるロマンなのでしょう。

 

 

さて「安房国札三十四観音霊」ですが、霊場として意識して巡ったことはありませんが、他の霊場同様、御朱印をいただいているうちに知る事になった霊場です。

 

霊場札所の地図を『CLIP』さんからお借りしました。

そもそも読みがわからない「安房国」を当初は「あわこくさつ」と間違って読んでいました。

正解は「あわくにふだ」もしくは「あわのくにふだ」だそうです。

 

要するに他の霊場と比べて「札」の一文字が多いので読めなくなります。

「札所」の略でしょうか?

ならば「安房国 札所 三十四観音霊」と区切れば簡単に読むことができます。

 

もう一つ館山市内に「安房郡札三十三観音」という霊場があり、札所の地域も近いことから話をややこしくさせます。

こちらの「郡札」読みは「ぐんさつ」ではなく「こおりふだ」という、夏向きな冷たい読みだそうです。

 

どちらにしても房総半島南端に展開するメジャーな霊場ではないのですが、やはり御朱印ブームの影響でしょうか?

坂東三十三観音の結願寺、館山の那古寺を事務所とする「安房国札観音霊場会」があり、FBなどで情報発信しています。

▼さらに『房総タウン.com』など地域の観光サイトでも様々に紹介されています。

 

もちろん本ブログが参拝した2015年は、それらの情報はごく僅かでした。

 

安房国札三十四観音霊」は34ヶ所と番外3ヶ所の計37ヶ所の札所が設けられていますが、無住の寺も多く御朱印をコンプリートするのには容易ではない霊場のようです。

もっともこの霊場に限らず地方の「三十三観音霊場」の多くは、無住の寺をたくさん抱えているのでしょう。

 

検索していると「安房国」の37の御朱印を結願しているツワモノもいます。

イラスト・キラキラ御朱印ではない37ヶ所を踏破する熱意には敬意を表すばかりです。

 

 

▼お隣、安房国一宮「洲崎神社」と「安房神社」の記事です。

wave2017.hatenablog.com

 

鳩ヶ谷氷川神社の御朱印(埼玉・川口市)〜鳩ヶ谷「陸の孤島」は遥か昔のこと

鳩ヶ谷氷川神社御朱印

はとがや ひかわ じんじゃ主祭神須佐之男命(埼玉県川口市鳩ヶ谷本町1-6-2)

 

鳩ヶ谷氷川神社御朱印です(2022年夏詣書置き)。

鳩ヶ谷氷川神社御朱印です(2022年夏詣直書き)。

右上のマル印は「」でしょうか?

青い鳩が2羽飛ぶスタイルは2015年から変わらず。

 

鳩ヶ谷氷川神社御朱印です(2015年直書き)。

御朱印は境内左手の社務所でいただきました。

御朱印に関する丁寧な案内が貼り出されています。

頒布終了前ならば5種類の御朱印がいただけたことになります。

 

2015年参拝時には有無を言わず記帳いただいた1種類が当たり前だったことを振り返るとやはり隔世の感を覚えます。

何度も記していますが、当時ほとんどの神社の御朱印は1種類だけで、初穂料も300円。

現在のような御朱印を取り巻く環境になるとは誰も予想できなかったことでしょう。

 

▼鳩ヶ谷氷川神社へは埼玉高速鉄道鳩ヶ谷駅」から徒歩5分ほど。

川口市編入される前までのかつての鳩ヶ谷市は「陸の孤島」と揶揄されていました。

W杯の開催会場の一つであった埼玉スタジアムがある「浦和美園駅」と

東京の「赤羽石淵駅」を結ぶ「SR埼玉高速鉄道)」は、

W杯の開催に合わせて2002年に開業されています。

 

それ以前はバス路線しかなかったわけですから、沿線の人たちの交通手段は大きく変化したのでしょう。

現在は地下鉄などの相互乗り入れにより東京をまたいで、

横浜市の「日吉駅」まで直通で移動できるのですから

陸の孤島」から「群島」か「列島」に格上げされたような地域です。

 

▼そんな鉄道路線のおかげで駅から5分ほどで「一ノ鳥居」に着きます。

緩やかに傾斜する道路がやや右にカーブする微妙な位置に朱色の両部鳥居が建ちます。

島木と貫は朱色ではないのでツートン。なんとなく勇ましさが感じられる鳥居です。

▼参道は大きな銀杏の木が青々と茂っています。秋にはスゴイ事になるのでしょう。

▼住宅街を抜ける参道を銀杏の木が目隠しの役目と単調さを解消するようです。

▼参道を50mほど進むと「ニノ鳥居」と、石段上の「三ノ鳥居」が目に入ります。

▼車での訪問なら「ニノ鳥居」の左手に駐車場が設けられています。

▼社頭は2015年の初参拝時とは何やら様子が違い賑やかです。

鳩ヶ谷は日光への御成街道の宿場町でした。

神社は、その宿場町のほぼ中心地に鎮座し、創建は1394年と伝わりますので室町時代という事になります。

明治以降、周辺の神社がを合祀されて「鳩ヶ谷総鎮守」となったようです。

1600年、家康が会津征伐の際に当社で休憩をとったと伝わります。

その頃はまだこの狛犬は無かったことは確かでしょう。

▼少女二人の手水舎。男子二人より絵になるのはなぜでしょう?

境内が賑やかだった理由は本来は夏祭りの時期だったからだようです。

しかしコロナ禍で神事に関わる事業はかなり縮小されて露店だけが出ているようです。

 

▼ニノ鳥居の先は平成に造立された立派な「神門」。

▼社殿前に数基の神輿が展示されていました。神輿渡御も中止されたそうです。

▼社殿は昭和に改築されたそうでが、まだ屋根が新しく青々としています。

▼それほど多くの出店ではない露店ですが、地域の子供達の姿も多く、何かほのぼのとした感じをさせられます。

▼手前の小さな神輿は子供神輿でしょう。出番のない神輿は少し寂しげです。

境内社を見ていきましょう。

▼「天満宮」は「熊野社」と「八幡社」の相殿になっています。

▼絵馬やみくじの多さは神社が崇敬され、人気のバロメータでもあるでしょう。

▼さらにその奥に「浅間社」と「三峰社」が並びます。

▼岩屋の中に弁天様もいらっしゃいます。

▼「稲荷社」もきれいに整備されています。

▼大・中・小、極小の神狐。

戦没者慰霊碑の隣に「笑う少女」。著名な彫刻家、北村西望の名があります。

▼「力石」。

それほど広くはない境内ですが、社殿の側面から裏側まで見るものが次から次へと現れ、飽きさせません。

▼「古峯社」の狛犬はマンガチックでユニーク。

▼その傍らに、もうすぐ役目を終えそうな狛犬は苔むしています。

▼御神木の「夫婦楠」。

こうして全てに案内札が立てられているのはありがたい事です。

▼楠は反対側に回ると、まさに夫婦。縁結びの役目を引き受けているようです。

▼きれいなハート形の植栽は喜ばれそうですが、維持が大変そうです。

▼「猿田彦大神」も祀られています。

▼祭りのお囃子が・・・

▼・・・楠より高くへ流れていきました。

 

▼最後に2015年参拝時の写真。

4月午後の訪問でしたが、同じ神社とは思えないほど静か。

やはり神社も参拝者の姿があるか無いかで、そのイメージは驚くほど異なります。

 

そして来年、2023年こそは祭りが縮小されず、フル内容で開催されることを祈ります。

天徳寺の御朱印(東京・港区)〜江戸三十三観音、10年前の印影を追う

光明山 天徳寺御朱印

てんとくじ」浄土宗(東京都港区虎ノ門3-13-6)

 

「江戸三十三観音霊場 20番札所」の御朱印になります。

 

天徳寺御朱印です(2022年)。

日付は自前で入れています。

 

天徳寺御朱印です(2012年)。

▼2012年は浅草寺で求めたこの朱印帳に浄書いただいています。

▼境内右手の庫裏入口。

▼その庫裏の入口に御朱印が用意されていました。

2022年5月4日は連休だからの書置きなのか、はたまた常時書置きなのか分かりません。

声をかけて住職がいらっしゃれば「江戸三十三観音」の朱印帳で巡っていることを告げれば、朱印帳に浄書いただけるかもしれません。

 

▼天徳寺は愛宕神社の南西、スグのところに門を構えます。

 

愛宕神社参拝後に天徳寺訪問です。

愛宕神社境内の南にある「愛宕新坂」の途中から階段を降りるとここに出ます。

▼石段を降りたところは「愛宕隧道」脇ですが、トンネルを背にして進みます。

▼1つ目の角を左折すれば右に山門が見えます。

▼山門は12年と22年の撮影ですが何の変化もありません。

天徳寺は1533年の開創で当初は皇居内にあったものが、

江戸城拡張 → 霞ヶ関 → 当地へと移転しています。

▼境内に入るとモダンな造りの鐘楼。

天徳寺も関東大震災東京大空襲で伽藍を失っていますので、主な建物は戦後の再建でしょう。

▼境内に入って一番目を惹かれる建物は本堂の「八角堂」。

▼二層の八角堂は都内では見かけたことがないので珍しいかもしれません。

 

さて、当寺を2012年に最初に訪れたのは「江戸三十三観音」を巡っていた時でした。

上に掲載した、浅草寺で購入して表紙に「江戸三十三観音」と書いていただいた専用朱印帳を持って、本ブログとして初の霊場巡りでした。

初めての霊場めぐりに嬉々として参拝していました。

もちろん当時ですので、朱印帳1冊に全て直書きいただいています。

 

 

当時の天徳寺では庫裏入口から内部へ招かれて、堂内に祀られていた観音様に手を合わせさせていただきました。

庫裏内は田舎のおばぁちゃんの家に帰ったような雰囲気を持っていました。

ご住職に浄書いただいている間、奥様かと思われる女性に

若いのに えらいわねぇ」と労っていただきましたが、

大して若くもなく、また真剣な霊場巡りというより、御朱印収集が主目的だった事に

こそばゆさと、罪悪感のようなものを感じたことが懐かしく思い出されます。

 

 

同じく、2012年当時に御朱印に興味を持ち始めた人たちは、

御朱印収集にある程度に慣れてくると、多くの人たちは霊場巡りをするような流れになっていったように感じています。

例えば東京・関東で言えば

「江戸三十三」や「鎌倉三十三」「東国三十三」「札所三十四観音」「関東三十六不動」などなどです。

 

 

しかし、ここ4、5年で御朱印にはまった方たちは、10年前に御朱印を始めた人たちの流れとは違うムードを持っているようです。

もちろん、2022年の現在でもそういった霊場巡りをする方はいるでしょう。

しかし、何と言ってもイラストやキラキラ御朱印が興味のキッカケだった人たちは霊場巡りは二の次になるかもしれません。

 

 

何といってもインスタなどで映えるのはイラストやキラキなどですから、それらを追うのは当たり前の流れかもしれません。

10年前の2012年のSNSは、まだブログが主流だったはずですので、

その後の爆発的な力を持つツイッターやインスタなどで、御朱印を取り巻く環境が大きく変わったことは確かでしょう。

 

 

ここ10年の御朱印は、そんなSNSとともに歩んで、進化してきたと言っても過言ではないでしょう。

そこに御朱印収集者の多様な形が見られるようになったように感じます。

さらに大きな変化は御朱印授与側でしょう。

 

 

例えば浅草寺などでは御朱印をいただく時、

御朱印について」などという印刷物が添えられます。

その内容は御朱印の本義を説き、単なる収集を戒めています。

そして、そういう印刷物を渡す社寺にイラスト・キラキラ御朱印はないでしょう。

 

神社は別にしても、イラストやキラキラ限定御朱印を授与する寺院は

御朱印について」などという印刷物など作りません。

その理由は言うまでもないでしょう。

 

御朱印を授与する側、受ける側、それぞれが変化する、変化しないと言う立場の多様化が見られるということです。

 

本ブログでは「御朱印収集」または「収集者」という言葉を頻繁に使用していますが、

その対象は広範囲で多様なスタイルを持っているということになります。

 

 

いつものことですが、ブログ目的の天徳寺の話題から外れています。

 

▼ついでにそれて寄り道です。先ほどの「愛宕隧道」に戻ります。

愛宕神社への細い石段参道を左に見ながらトンネルをくぐります。

▼トンネルを抜けると右手に「愛宕山エレベーター」があります。

これを利用すると楽ですが「出世の階段」をスルーする事になります。

 

▼「愛宕神社前」の交差点に出たら大通りを右折。右側の歩道に観音菩薩像。

観音菩薩像は、ここ「青松寺」のものでしょう。

▼通り沿いに見上げるような立派な山門が建っています。

四天王像が睨みを利かせています。

青松寺」は1476年開創の歴史、由緒ある禅寺です。

明治には曹洞宗専門学本校が開校し、駒込吉祥寺の旃檀林と合併して駒澤大学へと発展していきます。

震災などで失った堂宇は再建され、どれも新しさを感じます。

▼中雀門をくぐって本堂前には仁王像が立ちます。

▼しかし、この立派な寺は昔から御朱印なし。

この看板は御朱印を求める訪問者が多いことを示しているのでしょう。

禅寺にしては珍しいのですが、中には御朱印なしの禅寺も時々ありますね。

 

▼ご近所の記事です。

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