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御朱印迷宮

関東を中心とした寺社の御朱印記録です。参拝・収集目的に少しでも役立てば幸いです。

赤城寺の御朱印(群馬・桐生市)〜赤城山の成田山はワクワク感が止まらない

成田山 赤城寺御朱印

せきじょうじ真言宗智山派群馬県桐生市新里町大久保413-4)

どうしても「あかぎでら」と読みたくなりますが「せきじょうじ」です。

ほとんどの寺名は音読みですから、それをわきまえれば読み違えることはありませんが、「清水寺きよみずでら)」のように稀に訓読みの寺名があります。

もちろん「清水寺」も全国にいくつもあり、多くは「せいすいじ」と音読みです。

 

御朱印中央の墨文字「不動心」とは

「何事にも動じない不変の心」を意味し、自らの成長を祈願して、初心を忘れず鍛錬・修行に臨み、いざ勝負事の際には相手、そして自らの心の変容に惑わされずに普段の力を発揮するための精神性を表した言葉になります。

赤城寺のホームページに御朱印とともに紹介されています。

「赤城寺」のHPは2019年に開設されたようで、2016年訪問時は当寺に関する情報は無いに等しかったと覚えています。

 

▼赤城寺は、その名のごとく赤城山南麓に位置します。

同じ群馬県の前橋にも、同じく真言宗の「赤城寺」があります。

同じ読みの「せきじょうじ」ですが、こちらは桐生市赤城山南麓の「赤城寺」です。

 

 

▼ドライブしていて一番ワクワクするのは「海に向かう道」を走っている時です。

適当な写真がないのでこんな海沿いの道の写真になってしまいましたが、

本当は一直線の道を走っていて、遠くの水平線上に海が見えてくるようなシーンが最高にワクワクです。

真冬の時期を除いて、なぜか「海にドライブに行こう!」と誘ってイヤがる人は少ないでしょう。

 

▼もう一つのワクワクは「山に向かう道」。

これもテキトーな写真の持ち合わせがないのですが、

遠方の山を目指して走り、一向に近くならない山から、

やがて山麓に差し掛かり、徐々に高度が上がっていくシーンがワクワク時のクライマックス!

 

海も山も、前提としてドライブ好きでなければ、そのワクワク感は得られないかもしれません。

 

群馬・大間々から赤城山山頂の赤城神社に向かっていた道路は、

やはり赤城山らしき姿を遠くに見ながら徐々に標高が高くなっていくものの、

道路は広く空いていて快適なドライブでした。

 

▼R353号線沿いに寺への入口が目立っています。(写真は「googlemap」からお借りしました)

実はこの写真の門は2016年の参拝時には無かったように記憶しますが、ハッキリしません。

道路と垂直に立つ不動明王のカンバンがドライバーにも目に止まります。

 

▼こちらが「仁王門」になるのでしょう。

▼筋肉質の仁王像が来訪者をチェック!

▼山門を入って最初に目に入るのが、この植栽文字。

寺院にある植栽文字は初にお目にかかりました。

どこかのテーマパークにでも来たような感じです。

しかしこの植栽、日々の手入れを怠ると文字が読めなくなってしまうでしょう。

 

ここまで色々と派手なものが目に入ってきましたが、

▼「本堂」はシットリです。

▼アミ戸の奥に本尊の不動明王像が透けて見えました。

当寺の創建ははっきりしません。

寺の第一世住職が大本山 成田山新勝寺で修行されて開創されたそうで、何れにしても戦後に創立された新しい寺なのでしょう。

 

▼境内脇の「導き不動」は徐々にその数が増えているそうです。

現在はもっと数が増えていることでしょう。

さらに参拝時の2016年以後にも新しく見どころが作られているようで、

ワクワク感も増しているかもしれません。

 

東京から地方に出ると、どの社寺も変わらぬ忙しない参拝になり、赤城寺でも多くの見所を見られずに終わっています。

この寺も是非とも再訪したく、その時に記事にしようと思っていましたが、

はや6年が過ぎ去ってしまいました。

 

 

大本山 成田山 新勝寺の記事。

wave2017.hatenablog.com

栄閑院の御朱印(東京・港区)〜「杉田玄白」に出逢って、「猿」を探せ!

久遠山 栄閑院御朱印

えいかんいん」浄土宗(東京都港区虎ノ門3-10-10)

 

栄閑院御朱印です。

人当たりの良い住職に気持ちよく対応いただきました。

 

▼由緒書きもいただきました。

御朱印は本堂左手の庫裏をピンポ〜ンします。

▼玄白の墓、猿の場所、御朱印について丁寧な案内があります。

▼庫裏で返事がなかったらこの鐘をカ〜〜ン!

▼庫裏の玄関内では絵葉書などの案内もありました。

▼寺へは地下鉄「虎ノ門」「虎ノ門ヒルズ」「神谷町」のどこから歩いても数分。

というより「出世の階段」で有名な「愛宕神社」の裏と言ったほうが分かりやすく、

いわゆる「愛宕山裏」ですが、小さな寺院が点在する地区で、週末のこのあたりは都心ながらとても静かな姿をみせています。

 

▼「山門」は冠木門に屋根を設けたような造りで堂々としていました。

黄色い塀も良い雰囲気を醸し出しています。

 

▼分かりやすい「さる寺」と「都史跡 杉田玄白」の石柱。

▼「さる寺」と呼ばれる寺は全国に見られます。

東京でも「さる寺」がいくつかあるようです。

もちろん、それぞれ伝承や逸話があるのでしょう。

 

「見ざる 言わざる 聞かざる」の三猿や、

日吉神社の「神猿(まさる)」などは神社でも見られますように、

猿は縁起が良いとされるのは、

困難、苦難が去る」「病気が去る」「悩みが去る」などの語呂合わせも人気になる要因なのでしょう。

 

▼本堂前で狛犬ならぬ「狛猿」のごとく左右一対の猿像が見張っています。

片方の猿は「」を抱えています。

」は古来貴重な食べ物。「不老不死」や「長寿・繁栄」を意味するそうです。

 

▼「猿の惑星」に出演していそうな猿で、妙にどこか人間臭いです。

▼猿は本堂屋根上の両端にもいるそうですが、木々に覆われ確認できません。

▼向拝は、よく見ると猿が見つけられます。

栄閑院」は江戸時代初期に、近隣の「天徳寺」の塔頭として創建されています。

「猿寺」と呼ばれるのは、wiki から引用です。

猿まわしの泥棒が当寺の住職によって改心し、猿を残して、諸国行脚の巡礼に旅立った。残された猿は、当寺の飼い猿としてかわいがられた逸話からきている。

▼本堂右横から屋根付き門をくぐり墓域に進みます。

▼本堂横のわずかな狭い通路を進みます。

▼突き当たりの右にすぐ見つかり「杉田玄白」が眠っています。

教科書に必ず載っていて誰もが知る「杉田玄白」です。

▼墓石は特に特徴のないのですが、四角く、低く、大きく、どっしりとしています。

墓石の後ろに立てられた卒塔婆には

玄白の戒名「九幸院仁誉義真玄白居士」の文字が読み取れ、

墓石には「九幸杉田先生之墓」と彫られています。

▼見上げれば「愛宕山」がモクモクとした緑が覆いかぶさってきます。

▼片やを目にすれば高層ビル。玄白が生きていたら「解体」してみたい対象でしょう?

様々な著名人が様々な寺で眠っています。

以外にも小さな寺で眠る、ある時代の大きな巨人の墓は感慨深いものがあります。

 

▼墓域から戻って、広くはないですが境内を見回してみます。まずは「大黒天」。

▼こちらは「薬師如来」の石像。

▼釈迦のストゥーパかもしれません。由緒には「釈尊安座納骨塔」とされています。

▼おそらく釈迦でしょう。

▼その左にすごい緻密な彫りの石像。

来迎図のようにも見えますが、壺を持っています。 薬師如来? 分かりません!

▼そして「猿塚」です。太宰治と関係があるのでしょうか? こちらも不明。

▼何でもありの様相を呈してきて「福禄寿」は、良い味の色になっています。

▼おなじみ「水子地蔵」たちも勢揃いです。

狭い境内ながら綺麗に整えられ、目を捉えられるモノ多しです。

メダカやオタマジャクシも住んでいるようで

見るだけにしましょう」と、寺側の優しい言葉が書かれていました。

様々な手書きの案内で、ほかでよく見かけるような「禁止」事項ばかりではない言葉は寺側の人柄が伝わってきます。

猿に出逢え、玄白に出逢い、

優しげな住職に逢える「栄閑院」です。

 

▼栄閑院に覆いかぶさる山の神社記事。

 ▼ご近所の記事です。

wave2017.hatenablog.com

山野浅間神社の御朱印(千葉・船橋市)〜標高23mから3700mを仰ぐ遥拝

山野浅間神社御朱印

やまの せんげん じんじゃ主祭神木花咲耶姫命(千葉県船橋市西船1-5-7)

山野浅間神社御朱印です(2022年)。

山野浅間神社御朱印です(2016年)。

大きな朱印は富士山のデザインの中に「浅間宮」となっています。

二体は6年間のブランクですが、

御朱印の構成、筆書き、朱印はにひとつ変化していません。

「山野」は鎮座地域の旧村名です。

 

6年前と同じ女性の手によって揮毫いただいたので変化ないのも納得です。

年配女性に6年前にいただいた御朱印を見せながら

6年前も おかぁさんに記帳いただきました!

そうですか・・私も もう年をとって いつまで書けるか・・」

いやいや、10歳はお若く見えるのですから

御朱印を求める参拝者に、いつまでも対応いただけるようお元気でいてください。

 

御朱印は社殿左手の社務所受付でいただけます。

 

▼当社へは「西船橋駅」「海神駅」のどちらから歩いても10分ほど。

 

▼神社鳥居前から船橋方面を見た国道14号千葉街道」です。

写真での道路はたまたま空いていますが、千葉市内まで慢性的に渋滞気味の道路です。

 

▼その千葉街道の内陸側、北側に神社の入口があります。

上の写真の左、狭いですが赤い道路に進めば境内の駐車スペースに導かれます。

車幅「▶︎1.8m◀︎」の交通標識があります。普通車ならラクショーです。

 

▼夏の季節は社号標が木々に覆われ影になってしまっています。

▼覆いかぶさる木々をくぐると石段が見えました。

石段の左右は溶岩石が置かれ、

富士登山を模していて頂上の浅間宮を目指す雰囲気にワクワク感が増します。

 

▼石段上に「一ノ鳥居」です。

富士山を取り巻いて、関東1都3件と山梨、静岡、愛知などを中心に全国1300社ほどある浅間神社の1社です。

創建は不詳ですが、鎌倉〜室町時代に勧請された時から神社らしき形があったようです。

 

全国1300社という数は大小さまざまな浅間神社の総数ですが、

かつての地域の主な浅間神社には「富士講」が組まれていました。

現在では極端に少なくなってしまった講でしょうが、当社では「富士講」が続いているそうです。

 

▼鳥居先の狛犬

▼まだ新しそうな狛犬は思いっきりお尻を上げ、子獅子もユニークな表情です。

狛犬造形職人さんの自由な発想は、まさにデザイナーです。

▼「一ノ鳥居」の先は長〜〜〜い参道が延びていて神域の広さを知らされます。

由緒によれば約2000坪の社地だそうです。

左右の木々が適度な日陰を作ってくれていて夏の長い参道も苦ではありません。

 

▼「ニノ鳥居」が見えてきました。

少しの石段とニノ鳥居を抜けます。

▼さらに社殿前へと石段が続きます。

▼最後の石段脇の狛犬は溶岩石の上から参拝者を見下ろしています。

もちろん狛犬の場合の溶岩石は、富士山とは関係なく「獅子の子落とし」を再現していることは言うまでもありません。

▼興味ある素晴らしい造形の厳しい表情はアップしたくなります。

▼見逃してしまいそうになる谷底の子獅子は這い上がれるでしょうか?

▼反対側では心配そうな表情で子獅子を見守りますが手出しはしません。

東京に近い船橋周辺では珍しいくらい長い参道を進んできてやっと社殿が見えました。

▼すぐ右手に手水舎です。

手水舎に柄杓はありませんが、水はしっかり出ていました。

▼その先に境内社が見えます。6社の説明する銘板も見られました。

▼優美な姿を見せる拝殿は江戸末期の建立が、手を加えつつ残されているそうです。

▼簡素と言うべきでしょうが、向拝の装飾と注連縄が美しく輝く拝殿です。

▼扁額は御朱印と同じく「浅間宮」。

耳にする言葉や、目にする文字で「神社」より「」の方が重厚さや、厳かさ、高い格調を感じるのは当ブログだけではないでしょう。

富士信仰」の拠点は「浅間神社」より「浅間宮」がふさわしいように感じます。

 

船橋市内の東京湾沿岸部では珍しくこの地点で標高22〜23mの高台です。

当社よりもう少し東に鎮座する有名な「船橋大神宮」は

標高10mにも満たないので、やはりここは高い山なのです。

 

 

標高20m強ですので大きな高い建物ができる前の江戸時代から昭和初期までは、

ここから江戸湾と江戸の町並みを掠めながら

120km先の標高3700mの霊峰富士が見えたのです。

 

 

富士山まで脚を伸ばせない人々が地域の小高い山を富士に見立て、

ここから霊峰と社殿に首を垂れ、両手を合わせた姿が目に見えるようです。

これが真実の「遥拝」かもしれません。

少なくともキラキラ御朱印を郵送でもらうための自宅からの「遥拝」とは大きく違うでしょう。

 

 

▼手水舎脇にあった境内社の案内に従ってみます。

▼手水舎右脇の細道は少し降っています。

▼降る途中にある「御嶽神社」です。

境内社といえども「」の文字がつく「御嶽神社」は覚えがありません。謙虚なの?

▼さらに降って左に折れると「浅間神社里宮」の鳥居です。

本宮との高さの違いは10mほどでしょうか。

千葉街道とは反対側の北側に「里宮」ですので、

かつてはこちらに主要な道筋があり、人々も多く暮らしていたのでしょう。

▼里宮に祠はなく、現在は石碑となっています。

▼御神木は老いて荒々しい姿を見せていますが・・・

▼反対側に回ればまだまだ樹勢が見える巨木の欅です。

▼里宮からは社叢の間に本殿が少しだけ垣間見えました。

▼車を止めた社殿前の境内に戻ります。

▼車脇に良い加減に乾いた「松ぼっくり」。ひとつ拾い上げて帰ります。

 

当社は富士山の山開きに合わせ、6/30〜7/1に祭礼が催され、たくさんの屋台と多くの参拝者で賑わうそうです。

そんな賑やかさとはかけ離れて静かな参拝となりましたが、心は和み、

6年ぶりにお会いできた、おそらく宮司さんの元気な奥様に再会できたことに感謝の

「山野浅間神社」でした。

文知摺観音の御朱印(福島市)〜訪問すれば、とても素敵な発見ができるかも

文知摺観音御朱印

もちずり かんのん」安洞院:曹洞宗福島県福島市山口文知摺前70)

 

文知摺観音御朱印です。

右上の印は「信達第二番」となっています。

読みが分かりません。調べてみました。

福島に「信達三十三観音霊場(しんたつ さんじゅうさん かんのん れいじょう)」という古い霊場があるらしい。

もちろん、御朱印ブームでこの霊場も見直されているのでしょう。

 

昔、大阪府にも信達町(しんだちちょう)という町があったそうですが、それとは違って、話はややこしい。

かつて福島県夫郡(しのぶぐん)と、伊郡(だてぐん)という地域があって、

それを「信達」と呼んだらしい。

 

信達」=「しのぶ」に「だて」ですが、読みは「しんたつ」だから話は面倒臭くなります。

「のぶお」や「のぶたち」あるいは「しんたち」と読みたくなってしまいます。

 

中央の墨書きいただいた観音名「文知摺(もちずり)」も最初はまともに読めないし、知らぬ言葉に意味も分かりません。

 

さらに「別当 安洞院」という墨書きがありますが、平成28年から「普門院」になってるそうですが、新しい別の寺院が管理するようになったという事でしょうか?

 

分からないことばかり多いのに、御朱印だけチャッカリいただいてきたという事になります。

 

福島市に土地カンはまったくありません。

福島駅の東、直線距離5kmのほどのところに「文知摺観音」はあります。

 

2015年のことです。なぜここを訪問したのかも、もう定かではありません。

もちろん御朱印をいただくために参拝したのは確かですが・・・。

 

ところが撮った写真が3、4点しかありません。失くしたのか、撮らなかったのか?

分からないことばかりの「文知摺観音」なのに写真がないのでさらに闇です。

 

当院には大きな石や句碑、石碑がたくさんあります。

しかし訪問時の当時はそれらに大きな興味はありませんでしたので、写真も撮らなかったかもしれません。

 

そして何よりは事前知識を持たなかったことです。

だからこの地の歴史も知らずに訪れたという、勿体無い訪問だったわけです。

まだまだこの頃は単純に「御朱印集め」だったのです。

その姿勢は変化していると思っている現在ですが、大きくは変わっていないかもしれません。

 

▼こちらが「信達三十三観音霊場 第二番 文知摺観音観音堂です。

向拝の左柱には「奥の細道三十三霊場 第二十九番 」の札も掲げられています。

いやはや、全国に無数にある「三十三霊場」を改めて知らされます。

 

寺の敷地は広いのですが、この時は鐘楼などは別にして主な伽藍がこの観音堂しか見つかりませんでした。

 

観音堂の右後ろは「足止め地蔵尊」。

地蔵の足元を縄で結わえておいて、家出人や行方不明者が戻ってくるご利益を祈ったそうです。

▼この写真はどのお堂内部を撮ったものか記憶なしです。

観音堂内部でなかったように思いますが「三十三観音」が勢ぞろいです。

▼この写真も境内にある池でしょうが、何となくパチリしただけでしょう。

僅かな紫陽花が咲き残っていました。

 

ここまで「あんまり」な記事なのでふくしまの旅さんのステキなページから引用させていただきます。

小倉百人一首の歌枕の地であり、松尾芭蕉正岡子規などが訪れた場所です。境内には観音堂、多宝塔、もちずり石、資料館「伝光閣」などがあります。行基菩薩作といわれる秘仏観音像のご開帳は33年に一度で、次回は2049年に行われる予定です。
京の巡察官・源融(みなもとのとおる)と山口長者の娘・虎女(とらじょ)の悲恋物語で知られ、「もちずり石」に源融の面影が浮かんだと伝えられています。

 

分からないことと、多くの記憶を失った文知摺観音でしたが、

▼しっかり記憶にあるのはこの安い夕食。

文知摺観音の参拝を終え、福島から宿泊先の郡山まで走り、

郡山駅構内で食べた「まぐろ三昧丼」です。

しかし、これが安かろう不味かろうで文句は言えないものの、凍っていました。

冷たくて歯にしみ、あのマグロのウマ味なんて全くなし。

オドロイた食べ物でした。

右上のデザートのつもりらしきオレンジが悲しい!

 

ヒドイ記事になりましたが、

「文知摺観音」はヒドくはありません。

皆さんが訪れたら、とても素敵な多くの発見があるに違いありません。

 

真福寺の御朱印(東京・港区)〜愛宕山下、迷宮「虎ノ門横丁」ノンアル彷徨

摩尼珠山 真福寺御朱印

しんぷくじ真言宗智山派(東京都港区愛宕1-3-2)

二体とも書置きで日付は入っていませんでしたので自前です。

御府内八十八箇所第六十七番札所の御朱印になります。

二体に朱印の違いはあっても構成はまったく変化はなく

書き手さんも変わってないようです。

 

真福寺御朱印です(2022年)。

真福寺御朱印です(2015年)。

真福寺は土・日・祝に寺務は行われないようです。

しかし丁寧な案内があり、書置き御朱印もたっぷり置かれていました。

平日ならば1Fの寺務所で直書きがいただけることもあるようです。

御府内八十八箇所」を週末に巡っている人たちにとっては、留守であってもきちんと書置きが案内されていればありがたいことでしょう。

 

▼最寄駅は日比谷線虎ノ門ヒルズ駅」、「新橋駅」からも1km弱です。

虎ノ門ヒルズ駅」は2020年開業の駅で銀座線「虎ノ門駅」とも地下で連絡してしるので、両駅は1つの駅と考えてもおかしくはありません。

そんな最寄駅の説明より「愛宕神社」の北隣といった方がわかりやすいでしょう。

 

真福寺周辺は数年前からどこを見上げても建設中の高層ビルが見えます。

地上も高層ビル建築に伴う工事が多く、なんとなく落ち着きません。

 

▼江戸時代の真福寺の様子です。(▼写真は「国立国会図書館デジタルコレクション」

愛宕のお薬師さん」と呼ばれて親しまれていた頃の様子です。

毎月八日の縁日には門前市が立ち、賑わいを呈していたそうです。

 

▼そして約150〜160年後、2022年の真福寺です。

1995年に近代的なビルになっています。

愛宕東洋ビル」という名称のビルは、古い寺号標があっても寺と認識するには難しいのですが、東京では見慣れた都会の寺の姿でもあるでしょう。

▼石段の上の2Fテラスからの眺めです。

真福寺は京都の総本山「智積院」の別院という立ち位置にあり、真言宗智山派の宗務出張所が置かれているそうです。

創建は1605年、当初は中央区鉄砲洲に結ばれていた小庵を移転し、寺の形に整えられています。

安政年間には一時、オランダ、ロシア、フランス使節の宿舎にもなっています。

 

▼額の文字は「医王殿」でしょう。薬師如来が祀られている建物を表します。

どこを訪問しても観察力のない身は、ビル内の寺やごくごくシンプルな寺を参拝した時は撮影対象が見つかりません。

▼そこで真福寺の隣になる「虎ノ門ヒルズ」を覗いて見ましょう。

虎ノ門ヒルズは森ビルが開発するプロジェクトで「森タワー」「ビジネスタワー」「レジデンシャルタワー」などで構成され、さらに建設中のタワーがあり、最終形は見当もつきません。 

▼現在は「森タワー」が中心的な存在かもしれません。

▼以前はこの階段に水が流れていましたが、なしでした。

▼建物の外側は「ステップガーデン」になっていてテーブル、ベンチで休めます。

▼ステップガーデンを先に進むとイベントスペースの「オーバル広場」。

▼オブジェはスペインのアーティストによる彫刻「ルーツ」で高さ10m。

▼広場の前はカフェになっています。

▼建物内部に戻り、どこかで見たような「ぼく、トラのもん」だそうです。(^_^)!

▼現状の3棟は連絡デッキでつながっています。

▼「ビジネスタワー」です。

▼すりガラスではなく滝です。

これは中国人アーティストの「作品」だそうです。

▼3Fには呑んべぇのための横丁が広がっています。

日曜の昼なので客はマバラ。

車で来ているので1杯も飲めません。

指をくわえて通り過ぎるだけです。

▼一番南にある建物は「レジデンシャルタワー」。

おおよそ「1㎡=¥10,000」の高級賃貸マンションはどんな人種が住むのでしょう?

 

▼その建物の先は「愛宕新坂」で、愛宕神社の鳥居が建ちます。

 

真福寺より「虎ノ門横丁」の写真記事になってしまった今回でした。

 

▼お隣さん「愛宕神社」の記事。

 

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