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御朱印迷宮

関東を中心とした寺社の御朱印記録です。参拝・収集目的に少しでも役立てば幸いです。

四天王寺の御朱印(大阪・天王寺区)〜私は亀になりたい?(下阪 御朱印 Tour---⓰)

荒陵山 四天王寺御朱印

してんのうじ和宗・総本山(大阪市天王寺区四天王寺1-11-18)

四天王寺天台宗に属していた時期もありましたが、現在は「和宗」の総本山として独立しています。

もともと日本仏教が始まった「聖徳太子建立の寺」であり、仏教の諸宗派が生まれる以前に創建されていますので、特定の宗派に属さないのが分かりやすいと思います。

和宗」とは何ぞやと調べたら、十七条憲法の「をもって貴しとなす」の「」を用いているそうです。

 

四天王寺御朱印です。

御朱印は手っ取り早く、機械的にスラスラッーと記帳いただきました。

 

中央の筆文字は「大悲殿」。

聖徳太子のご本地仏である救世観音を祀る「金堂」を表していると思います。

その下に重ねられた丸印は「三宝」だと思われますが、

ほかで良く見られる「仏法僧宝」の「宝」の文字はなく

仏法僧」の三文字だけのようです。

左下の印は「荒陵山 四天王寺」。

 

今宮戎神社から通天閣経由で四天王寺まで歩きました。

 

▼途中「アベノハルカス」が遠望できました。

こういうランドマークがあると自分の位置も含め、大阪の地理が理解しやすいものになります。

 

▼「カス」がまた現れました。大阪のたこ焼き、串カツは経験しましたがこれは未経験。

広大な四天王寺の敷地にはいくつかの出入口があり、本来は「中心伽藍」の直線上にある「南大門」が正面になります。

 

▼しかし交通機関などの利便性から「西大門」を利用する人が多いそうです。

大日本佛法最初四天王寺」と書かれた石柱が建ち、

▼石鳥居の扁額は「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中」と書かれています。

「おシャカさんが説法を説く所であり、ここが極楽の東門の中心である」という意味だそうです。

したがって交通の利便性だけでなく「極楽浄土の入口」として、この門から境内に進む参拝者が多いとか。

 

▼まっすぐ進むと「極楽門」。文字通り極楽に通じる門です。

▼さて、その極楽の中に足を進めてみれば、テントだらけ。

▼古本市なのか骨董市なのか分かりませんが、その開催日だったようです。

外から中心伽藍の全体を見ようとしましたが、テントに少しジャマされました。

 

人々に社寺をより身近に親しく、それとともに神仏の理解などを広めたく多くの社寺がフリマなどの境内利用を勧めるのは良い事なのでしょう。

遠方から純粋に社寺見学に訪れた人にとっては、いささかウルサく感じますがここは致し方なくガマンしましょう。

 

推古天皇の時代に建設が始まったされる四天王寺は、幾度も災害や戦火に見舞われています。

しかしその都度、不死鳥のごとく再建され蘇っていますので、多くの伽藍は比較的新しく戦後の昭和に建立されたものがほとんどでしょう。

そんなふうに多くの寺院が再建を繰り返したことを思うと、1400年前の木造建築が現存する法隆寺はやはり奇跡的な事なのでしょう。

また、日本への空襲で京都・奈良は意識的に避けられたかもしれませんが、

大阪はまったく避けられる対象にはならず、ことごとく焼けてしまったのでしょう。

 

四天王寺も同じ運命からコンクリート製に再建されたものとはいえ、6世紀末期の創建当初の建築様式に限りなく近いものだそうです。

となると有料区域である中心伽藍は見ておくべきかもしれません。

拝観料も300円と安いものです。

しかしコンクリート製という事と、この日も歩き回って疲れていたことがプラスされ足が向きませんでした。

広い境内のなかの南大門の方角へも足が向きません。

 

それでも極楽門の中に入り、五重塔や伽藍の屋根に出会え、御朱印も無事いただけたことに満足でした。

 

境内の北にある伽藍を巡りながら、この日の寺社巡りを終えようと思います。

 

▼「亀の池」の前方に建つのは「六時礼讃堂」。

▼亀たちは甲羅干し中。

大阪2日目も四天王寺で8ヶ所目の訪問。歩き回って疲れた身には羨ましい「ワタシはカメになりたい!」

 

▼重文の「六時礼讃堂」は薬師如来などに1日6回の礼讃が行われるそうです。

 

▼後方に回って、戦没者を祀る「英霊堂」。

かつては「大釣鐘堂」と呼ばれ、当時世界一大きい梵鐘が釣られていたものの、戦時中に供出されたそうです。

失われるものばかりで、戦争によって得るものは何もありません。

 

▼好みの建物が現れました。「大黒堂」でした。

虚空蔵菩薩の幟もありましたが、大黒天・毘沙門天弁才天の顔を持つ「三面大黒天」が本尊だそうです。

 

▼「元三大師」さんもいらっしゃるようです。

▼お堂は扉が閉まっていましたが「元三慈恵大師良源」さんに挨拶。

▼門内には露座の「魚籃観音」も。東京・三田の「魚籃寺」を思い出します。


▼「地蔵山」ここもイイ空間です。

▼またもや「融通さん」がいらっしゃいました。「融通地蔵尊」です。

手前には井戸らしき穴が開いて、かつての逢坂というところにあった清水だそうです。

 

▼本尊「立江地蔵尊」は眼病に霊験あらたかだそうです。

 

▼西大門の方へ戻って「見真堂」は親鸞聖人を顕彰するお堂。

 

▼「阿弥陀堂」は三重県国束寺(くずかじ)から本堂を移築されたもの。

 

▼最後に「弘法大師」さんにお別れの挨拶をして四天王寺を出ます。

 

この日の参拝後に理解したことですが、

前々回記事の「住吉大社」と今回記事の「四天王寺」は、

それぞれ半日ずつを費やしてゆっくり見て回るべき神社と寺院でした。

どちらも境内は広大で1時間前後の訪問では上っ面の見学さえ怪しいものになります。

御朱印巡りのため歩き回った後に訪れる寺社ではありませんでした。

 

東京から地方に出ると、ほぼこのような結果になることもあるのですが、

それでも不満を覚えた記憶はありません。

時にちょっぴり後悔は残りますが・・・。

今宮戎神社の御朱印(大阪・浪花区)〜「十日戎」でお逢いしたい福娘(下阪 御朱印 Tour---⓯)

今宮戎神社御朱印

いまみやえびす じんじゃ主祭神天照大神(阪市浪速区恵美須西1-6-10)

 

今宮戎神社御朱印です。

中央の筆文字は「えびす大神」。

 

若い神職さんにこんなに多くの文字を記帳いただいて300円。申し訳ない気がします。

商魂逞しいイメージを持つ関西ですので、その思いはなおさらです。

大阪の寺社に「商魂」は薄いのでしょうか?

今や商魂の逞しさは関東の社寺にその座を譲ったかもしれません。

 

▼最寄駅の南海は「今宮戎」表記、しかし地下鉄・阪堺電車は「恵美須町」表記。

以前にも記事にしていますが「えびす」の表記は様々です。

恵美寿恵比須恵比寿恵美須は序の口で

蛭子蝦夷・・・など、すべて「えびす」です。

 

もっとも「」などの文字は普段使いがありませんので、

御朱印をいただくようになって知った「えびす」です。

例えば鎌倉七福神 東覚寺の御朱印は「夷神」と書かれます。

初めていただいたときは、恥ずかしいことに「いしん」と読んでしまいました。

 

▼という事で「今宮戎神社」です。

この神社で毎年1月に行われる「十日戎」は

東京でもニュースになるほどチョー有名ですので、

大阪の方たちは「」を難なく「えびす」と読めるかもしれません。

 

本ブログも「今宮戎」「十日戎」の名称だけは知っていました。

そして神社のイメージも勝手に持っていました。

 

しかし「今宮戎神社」の現場に到着して、

ガランとした境内、摂社・末社などのが目に入らない境内にオドロキました。

その素っ気なさにがっかりしたと言って良いでしょう。

この神社に何をイメージして、何を望んでいたのでしょう?

 

もちろん神社のせいではありません。

ニュース画像などによって勝手に思い描いたイメージであったし、

この日は高津宮、生国魂神社住吉大社などを参拝した後なので、

それらの大きな神社は境内が賑やでした。

そんなこんなのギャップが「ガッカリ」という気持ちを起こさせたのでしょう。

全く勝手なものでした。

 

境内は綺麗に掃き清められ夏草1本ありませんが、まるで「兵どもが夢のあと」です。

 

身勝手な気持ちを抱いていると狛犬たちに叱られる事は間違いありません。

ハイッ! ごめんなさい、悪気はありませんが、こんな状況の時もあるのです。

 

▼なにはともあれ参拝です。天照大神と「えびす」としての事代主神にご挨拶!

 

「えびす像」は釣竿を持っているので想像できるように、元々は漁業の神さま

そして商都の浪速っ子によって、

いつの間にか「商売繁盛の神さま」に祀り上げられています。

まぁ、浪速っ子のせいではなく

七福神の流行などによって変化してきたのでしょうが・・。

 

何れにしても大阪っ子にとって「えびす」=「今宮戎」であり「えべっさん」です。

それ以外には考えられないようです。

 

▲そしてこの今は何もない境内が、

▼正月の「十日戎」にはこのようになるそうです。(▼写真はOSAKA INFO」)

関東でも同じように商売繁盛を願う「お酉さま」があります。

その願いの熱狂ぶりは西も東も変わりがないようです。

しかし「熊手」ではなく「笹」など、その祭の内容はかなり異なります。

(▼写真2点は今宮戎神社のHPからお借りしました)

一番の違いはオーディションによって選ばれ、金の烏帽子に千早姿の「福娘」たちの存在でしょう。

彼女たちは3日間の戎中に街中行列、団体への挨拶、餅まき行事など様々なイベントにお勤めするそうです。

こんな素敵なオネィさんたちなら、ぜひ「十日戎」を訪問してみたいものです。

でも、ヨコシマな心で「十日戎」を訪問してもロクな結果にならないでしょう。

関東人は「お酉さま」でガマンすることにしましょう。

 

▼今回はガラガラの境内でゆっくり参拝することにしましょう。

さて、当社は「四天王寺」を建立する際に、その西方守護として建立されたと伝えられているので1400年も前のことになります。

そしてほかと同様に戦時中に全焼しているので、建物はすべて昭和の再建です。

▼本殿の真裏も遥拝所のように施されていますが「十日戎」には、ここがなくては始まらないほど、重要な役割を果たす場所でもあるようです。

 

▼境内右奥に「稲荷社」です。

 

▼こちらは「大黒社」。

▼「陋巷を好ませたまひ本戎」と彫られています。

陋巷(ろうこう)」とは狭くきたない路地貧しくむさくるしい裏町だそうです。

 

▼では、その「陋巷」をさまよってみましょう。

いきなり「玉出」はパチンコ店か、玉袋筋太郎を思い起こさせられますが、

スーパーチェーン店らしく、他でも数回目にしました。

▼その次に「陋巷」で目にしたのは「かす」。

かす」は「」でしょうが、いわゆる油カス。大阪のソウルフードですね。

いよいよ「陋巷」メインストリートです。

あまり茶化していると「たいがいにせいや」と、大阪の方にしばかれそうです。

いてまうど、オラッー」クワバラクワバラ!

▼射的屋さんはミナミでたくさん見かけました。東京では縁日以外ありません。

▼昭和の建物です。東京タワーと同じくステキです。

何よりは「通天閣」と、カタカナを使わないこと。

東京浅草にも、その昔は「凌雲閣」という展望塔があったそうです。

いまや少し離れたところに「スカイツリー」が建ちますが、こんなには魅力的でない。

スカイツリーか東京タワーかに優劣はなく好みがあるだけですが・・・。

 

▼最後の「陋巷」を通り抜け、次に向かいます。


日本ではいくら路地裏に入っても、もはや「陋巷」は見つからないでしょう。

江戸時代の俳人が謳った言葉「陋巷」は、本当はどのような町、場所を指したのか漠然としています。

住吉大社の御朱印(大阪・住吉区)〜滞在時間1時間では足りない「すみよっさん」(下阪 御朱印 Tour---⓮)

摂津国一宮 住吉大社御朱印

すみよし たいしゃ」祭神:(第一本宮)底筒男命大阪市住吉区住吉2-9)

参拝日の住吉大社では各500円の書置きのみでした。

 

▼「住吉大社」の御朱印です。

右上の印は「摂陽第弌之宮」。摂津国一宮のことだそうです。

全国に2000社以上ある住吉神社の総本社であることは分かりますが、

勝手な思い込みでなぜか「住吉大社」と「一宮」は結びついていませんでした。

 

末社になる「楠珺社(なんくんしゃ)」の御朱印

旁だけを読めば良いのですが、なかなか「なんくんしゃ」とは読めません。

右上のスタンプは宝珠でしょうか?

楠珺社」の「珺」は「美しい玉」という意味だそうですので、その珠(たま)かもしれません。

 

住吉大社周辺には歩ける距離で5つの駅に囲まれています。

 

歩くのに疲れたので生國魂神社から電車で住吉大社に向かいました。

▼途中「阿倍野」で乗り換えですが「ハルカス」は見えても乗換駅が見つかりません。

googlemapは「ここだ」と示しているので、

道路で建物側を見て駅らしい入口を探しても見当たりません。

 

▼道路中央を走る路面電車が見て、やっと理解しました。

googlemapでは「阪堺電軌上町線」となっていました。

そうなのです「電気軌道」だったので、駅舎らしき建物などないのです。

 

道路中央を見ずに建物側ばかり探していたので見つからないのも不思議ではありませんでした。

大阪に路面電車があるとは知りませんでした。

正確には路面電車ではなく「道路に設けられ、道路交通を補助することを目的とした輸送システム」だそうです。

東京の「東京さくらトラム都電荒川線)」と同じように感じますが、道路上を走るか否かで性格が違うようです。

 

▼ともかく、その軌道は住吉大社の参道鳥居前を通っています。

かつての参道はもっと手前、西に長く、大阪湾につながっていたのでしょう。

何と言っても「航海安全」の神社でもあるのですから・・。

 

▼さすが大阪の初詣ランキング1位を誇る当社ですので、参拝者の数はハンパじゃない。

今回の大阪3日間で、この後に訪問した「四天王寺」と同様に一番のニギワイでした。

▼表参道にあたる西から境内への入口に建つ大鳥居。

狛犬はデカイ。台座があるからさらに高く見上げることになります。

▼大鳥居から進むと朱色の太鼓橋。神社では「反橋」と呼んでいます。

渡るだけで罪深さも浄められるそうですが、2往復以上しないと穢れは祓われない人もいるようです。

橋の頂点に立つと前後左右の眺めを写真に収めたくなります。

 

▼北側の橋の上は大勢の人だかり。どうやら結婚式の参列者の一団。

▼正面は瑞垣を巡らした神門。

▼振り返って西大鳥居方面。反橋は最初に目にした感じより急勾配でした。

▼先ずは洗心しましょう。

▼石段の先がいよいよ神域になります。

鳥居の柱は丸くなく角形で「住吉鳥居」と言うそうです。

 

▼その「住吉鳥居」に掲げられている扁額はおそらく陶製でしょう。

東京・佃島に鎮座する「住吉神社」の扁額も紺色を使用した陶製で、

やはり金網で保護されています。なぜ陶製なのか不思議ですが理由はわかりません。

東京の住吉神社扁額は高さが1m以上ありました。

ここ、大社のものも同じような大きさのように思われます。

 

▼神域に入るとすぐ正面に国宝「住吉造り」の「第三本宮」と「第四本宮」が左右に並列されています。

▼「第四」を参拝し、横へずれて「第三本宮」へ。

▼「第三本宮」からは「第二本宮」「第一本宮」へと一直線に直列しています。

四つの本宮にはそれぞれ個別に四柱の祭神が祀られています。

▼各社殿内部の正面はどれもスクリーンが下されていました。

▼やはり檜皮葺きの屋根は、瓦葺きなどに比べると深い趣きが感じられます。

由緒によれば当社は1200年前の創建とされています。

関東の住人から見た住吉大社は「海上・航海安全の神」「商売繁盛の神」が主にイメージされますが、

「祓の神」「農耕の神」「和歌の神」「武の神」「相撲の神」としても信仰されているそうです。

神社の長い歴史の間に次々と新たな神としての祈願・信仰がされてきたのでしょう。

 

 

▼「第一本宮」前は正装した巫女さんが二人立っていらっしゃいました。

▼二人の巫女さんはこの行列をお迎えのようでした。

反橋の上から見た一団の方々なのでしょう。

神社で結婚式に出会うと、所詮他人事であるのに心から祝福したい気持ちになるのはなぜでしょう?

 

▼「第一本宮」右奥に案内された大きな文字は事前知識がないと読めません。

なんくんしゃ」と「はったつさん」です。

五大力」など2色使いの手書きの案内はセンスの良い出来で分かりやすい。

▼その案内が掲げられていた「南瑞籬門(みなみみずがきもん)」内部にに入りました。

住吉大社にカタカナの「パワースポット」と言う文字は似合いませんが、これも長い歴史の中での一つの変化とされていくのでしょう。

この一画は「五所御前」と呼ばれ「住吉大神」が創祀された場所とされています。

▼「五・大・力」の3つの石を探してみました。すぐに見つかりました。

この石をお守り袋に入れ持ち歩けば「体力・智力・財力・福力・寿力」の「五大力」を授かることができるそうです。

 

▼「大神宮」は伊勢神宮遥拝所。伊勢方面を向いているのでしょう。

 

▼こちらは「楠高社」。神巳(神様のへび)さんがいらっしゃるそうです。

 

▼「楠珺社」のご神体は樹齢1000年と言われる楠。神狐が守っています。

楠珺社」は、毎月最初の辰の日に「初辰まいり」として参拝し、

「発達」の語呂合わせでしょうが「商売発達・家内安全」のご利益がいただける

はったつさん」として古くから商いを営む人々に信仰されています。

 

人々は神秘的な千年の楠に霊力を感じ祈りを捧げてきたのでしょう。

そして言葉遊びの好きな江戸時代の人々が

初辰」を「発達さん」と親しく呼ぶようになったのかもしれません。

 

そう言えば「はったつさん」は、

高津の「報恩院」でも辰の日にお参りする北辰妙見菩薩が見られました。

関西人は「はったつさん」が好きなのでしょう。

そして「すみよっさん」に「はったつん」です。

何に対しても「さん」付けです。

これは関西というより京都の方がシツコイかもしれません。

「やさかさん」「おひがしさん」「えべっさん」「おくどさん」「おなすさん」・・・

耳障りの良い柔らかい言葉ですが、こんな例は関東では決して耳にしません。

 

▼社伝奥は福を招き寄せる「招福猫」が並びます。羽織袴姿が関西っぽい。

▼「招福猫」は24年間、毎月の参拝で「大猫」に育つそうです。


もう少し他の境内社を見ていきます。

▼「若宮八幡宮」は、第四本宮の祭神 神功皇后の子にあたる応神天皇誉田別命八幡神)が祀られています。

「若宮」という言葉は皇族の子という意味も有しています。

 

▼少し北に「新宮社」「八所社」などの社がズラッーと集められています。

 

▼朱色の小さな社殿の間に周囲とは異色の「招魂社」。

桃山~江戸初期の建築だそうで、かつては「護摩」だったそうです。

 

境内を出て境外社の「浅澤神社」「大歳神社」方面に向かってみます。

▼境内を出る南門の外には大きな石灯篭には「薩州」の文字が。

島津家の始祖 忠久は住吉大社の境内で生まれたと伝わっていますので、薩摩と住吉は深い繋がりが保たれていたのかもしれません。

▼江戸時代末期に建てられていました。

 

▼南にある鳥居を出ました。

 

▼間も無く見えてきた「浅澤社(あさざわ)」は、住吉の「弁天さん」だそうです。

芸能・美容の神様は女性に大人気。

 

▼さらにその先に「おもかる石」の案内看板が見えました。

 

▼「大歳神社(おおとしじんじゃ)」です。

元は五穀豊穣、収穫の神様だったところ、

いつからか「集金の神様」にもなっているそうです。

商都である大阪人らしい発想から生まれたものなのでしょう。

▼鳥居は江戸時代後期の建立。

 

▼その右隣に奇妙な名称の「おいとしぼし社」。

お愛し星」「老年星」とも言われるそうですが、その由来は不明。

 

▼参拝者に大人気なのは「おもかる石」システム。

石の重さの感じかたで願いや運を試すのですが、

もとは「石占い」が始まりとも言われています。

神社には御神体とする「巨石」、

さらに「さざれ石」「力石」「要石」などと「」がある景色が似合うようです。

 

 

そろそろ住吉大社ともお別れです。

▼近くの流れは深い谷を刻んでいて、やがて流れは大阪湾に注ぐのでしょう。

 

▼神社を出ようと北参道に向かう途中にあった「誕生石」。ここも「」です。

諸説ある中、頼朝の落胤とされる薩摩藩島津忠久誕生にちなむ石です。

 

▼綺麗な姿を見せる北から見た「反橋」。

 

▼北脇参道から境内を出ます。

備前焼狛犬たちに挨拶「さようなら!」

▼「アァ〜〜〜〜ン!」

 

長〜い、なが〜〜い記事になりました。

それでも住吉大社の隅々まで見るとしたら、その半分も巡れなかったかもしれません。

次の予定があったので1時間強だけで急ぎ巡った参拝でした。

 

▼東京・佃島住吉神社」の記事

wave2017.hatenablog.com

生國魂神社の御朱印(大阪・天王寺区)〜なにわのおおやしろ「いくたまさん」に逢いに行く(下阪 御朱印 Tour---⓭)

生國魂神社御朱印

いくくにたま じんじゃ主祭神生島大神足島大神大阪市天王寺区生玉町13-9)

干支御朱印も「お書きします」と案内されたので見開きで記帳いただきました。

 

生國魂神社御朱印です。

いくくにたま」と読むには難しい3文字です。

東京に「大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)」がありますので、

参拝歴のある人は何となく読みの想像がつくかもしれません。

 

生國魂神社の干支御朱印です。

難波大社」は「なにわのおおやしろ」と読み当社の別称で、

通称では「いくたまさん」と呼ばれているそうです。

 

御朱印は拝殿左隣の授与所で。

 

▼「生國魂神社」の鎮座地住所は「生玉町(いくたまちょう)」。

明治期に「生玉町」の町名が定められたそうですが、

もちろん「生國魂神社」の関連から付けられたのでしょう。

 

▼やはり「いくくにたま」では舌を噛みそうで言いにくく、語呂も悪いので「いくたまさん」なのでしょう。

それとも「生玉町」に鎮座するところから「生玉(いくたま)さん」と呼ばれるのが正しいのかもしれません。

 

「生國魂社」の名称は日本書紀に見られるそうなので詳細な創建は全く不明。

もちろん式内社で現在は別表神社。大阪でも最も古い神社です。

 

▼正面の「大鳥居」から見る神社は清々しさでイッパイです。

元々は大阪城のある地に鎮座していたそうですが、大阪城築城の際に現在地に遷座させられています。

大阪城築城にあたっては多くの寺社が移転させられたのでしょう。

そして、それらの多くは等しく戦時中の空襲で全焼する運命を同じくしています。

 

 

▼新し目の「手水舎」の龍の吐水口は、見慣れたおなじみの光景となっています。

 

▼広々とした境内は、前日の嵐がウソのような陽光に満たされていました。

 

▼コンクリート造りの「拝殿」の後方に建つ本殿は、神社建築では他にない「生國魂造」様式だそうですが、まったく見えません。

 

▼写真をお借りしましたが、見たこともない造りです。(▼写真は「OSAKA INFO」

境内を回り込んでも、どこからもこの姿は見ることができませんでした。

主祭神の「生島神(いくしまのかみ)」「足島神(たるしまのかみ)」は、万物を生み育て生命力を与える神と、国中を満ち足らしめる神だそうです。

 

この神を祀る神社を多くは知りませんが、

長野上田市の「生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)」は、そのままの名称となっているので思い出させられました。

 

▼境内の北の雰囲気の良い場所に鎮座するのは「天満宮」「住吉神社」「皇大神宮」。

三社が並ぶこの一画は、とっても気持ちの良い風が流れていました。

 

▼その三社が建つ場所のさらに奥は森になっていました。進んでみます。

▼「八兵衛大明神」の幟が・・・。

居酒屋などの名称で見かけるような「八兵衛」ですが・・・。

八兵衛」さんは大阪ミナミの道頓堀・中座に芸能の神として祀られていたものを、中座の閉館によりここに遷座されたそうです。

 

さらに杜の奥に進むと少し低いところにちょっと空気感の違う区域がありました。

▼石段を下がって振り返った鳥居です。

どうやらこの一画が「いくたまさん」の核心的区域のようです。

ここに足を踏み入れなければ、生國魂神社の良さがわからなかったでしょう。

 

▼奥から「浄瑠璃神社」「家造祖神社」「鞴神社」が並び、どれも立派な造りです。

どれもそれぞれに鳥居が建ち、

▼左端の「城方向八幡宮(きたむきはちまんぐう)」の手前にはもう一つの鳥居が。

▼まだまだ境内社が鎮座し、こちらは「精鎮社」。

緑の網で覆われているのは池のようです。弁財天なのでしょうか?

 

▼こちらは「稲荷神社」「源九郎稲荷神社」と「鴫野神社」。

▼「鴫野神社(しぎのじんじゃ)」はと縁結びのご利益があるとかで女性の姿が多く見られました。

提灯は「心に錠前」? 「縁結び・縁切り」のご利益だそうですが意味深長です。

 

▼どの社も朱色の覆屋に守られ、この一画もとても雰囲気良く気持ち良い空間でした。

 

▼「夫婦善哉」の作者「織田作之助」は、当社の東になる「生玉前町」の仕出屋で生まれたそうです。

 

▼北側にある出入口から出て神社を後にしました。

 

有名な神社をいくつも巡った今回の大阪でしたが、

10以上の境内社が集まる一画を持つ生國魂神社も記憶に残る神社となりました。

 

 

▼名称が似ている「大國魂神社」の記事。

wave2017.hatenablog.com

藤次寺の御朱印(大阪・中央区)〜「コロナ大仏」に出会った(下阪 御朱印 Tour---⓬)

如意山 藤次寺御朱印

とうじじ高野山真言宗(阪市天王寺区生玉町1-6)

 

▼「藤次寺」の御朱印です。

直書きいただいた御朱印は「摂津国八十八箇所第十九番」

本尊「宝生如来(如意宝珠融通尊)」となりました。

 

▼書置きの御朱印も用意されていました。右は「吉祥天」のようです。

東京のように書置きでも500円といことはありません。

大阪のほとんどは直書きでも300円でした。

 

▼高津宮から「谷町9丁目」の交差点を渡ると「藤次寺」の山門がありました。

こちらの寺も参拝予定にあったわけでなく、行き当たりばったりでした。

地方で御朱印巡りをしていると、こんなことが度々あって面白いものです。

もっともこの辺りから四天王寺まで寺町が形成されていて

摂津国八十八箇所」の札所も10寺ほど点在していました。

 

▼石柱の横脇には「融通さんまいり」の文字が刻まれていました。

如意宝珠融通尊」を本尊とする藤次寺は「融通さん」とも呼ばれているそうです。

人々が目標に向かい努力する中で、もう少しだけ手が届かない時、

その「もうちょっと」を

宝生如来がそっと背中を押してくれ、融通してもらえるそうです。

 

ちょっとだけよ〜」という声はないそうです。

 

 

藤次寺は平安初期の公家・歌人である藤原冬嗣の発願により建立されています。

藤原家の安泰を願い建立され、藤原家を治める寺であることから「藤冶寺」と称していましたが、明治に「藤次寺」と改称されています。

 

 

発願人 藤原冬嗣と言われても、

藤原鎌足を祖としてその子 不比等をはじめ、その後の平安時代の朝廷の一大勢力の名を成した藤原氏ですので

藤原の名はたくさん出てきて、凡人には誰が誰だか覚えられるものではありません。

 

冬嗣もその藤原氏の一人、とだけ理解しておきましょう。

さらに時は降って、衰えた寺を加藤清正が伽藍を整えた時期もあったそうです。

度々の戦火や厄災、神仏分離など、神社よりもはっきりとした盛衰の歴史を持つのが寺院です。

 

▼2020年に高さ4mの不動尊像が造られ「谷町不動尊」として本堂に祀られています。

山門の「谷町不動尊」ポスターには、平成の大仏師「松本明慶」の名がありました。

この不動尊は2020年に造られているので

コロナ大仏」「コロナ不動尊」とも呼ばれているそうです。

名誉なのか、不名誉なのか?

 

当寺の地域から四天王寺あたりまで30以上の寺院が点在していて、

古い歴史を持つ寺も数多くありますが、寂しいことに古刹の趣を持った寺は一つも見当たりません。

すべて空襲で焼け、戦後の再建なのでしょう。

趣は足りないものの比較的新しいだけに、どの寺院も境内は綺麗に整えられています。

 

 

▼本堂で本尊の「宝生如来」と「谷町不動尊」に挨拶いたしますが、そのお姿は見られませんでした。

本堂に上がりこめば「コロナ大仏」さんに会えたかもしれません。

扉の奥左手に御朱印がいただける「吉祥天」が祀られています。

 

▼境内を歩いてみましょう。

 

▼こちらの不動明王像もそこそこの大きさですが、特別の名はないかもしれません。

 

▼「大黒天」が祀られています。

 

▼素朴な彫りの大黒天は寂し気。古いものかもしれません。

 

▼「地蔵菩薩」もお堂に入っています。

諸仏を目にした時、仏像を守るお堂の有無だけで感じかたが違ってきます。

当然、お堂がある仏像は大事にされ、それなりに由緒のあるものなのでしょう。

 

▼こちらは「稲荷社」。妻側を正面としたお堂に祀られています。

▼対照的な造りの左右の灯篭の間に、現代的に見える石の造形物。

▼石の中央に大師像が埋め込まれていました。「南無遍照金剛!」

 

藤次寺には船場生まれの山崎豊子の墓があるそうですが、

全くの事前知識のない行き当たりばったりで出会った寺の参拝なので見逃しました。

場当たり的な訪問では残念ながら経験の多いことです。

 

 

▼「融通さん」は大阪のこの寺にもありました。少し「融通」の意味は違いますが。

wave2017.hatenablog.com

 

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