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御朱印迷宮

関東を中心とした寺社の御朱印記録です。参拝・収集目的に少しでも役立てば幸いです。

高津宮の御朱印(大阪・中央区)〜谷底で「陰陽石」に出会った(下阪 御朱印 Tour---⓫)

高津宮御朱印

こうづぐう主祭神仁徳天皇大阪市中央区高津1-1-29)

 

高津宮御朱印です。

直書きいただいた筆書き中央は「高津宮」。

重ねられた神社印も「高津宮」。

どちらも一見では読めませんが「これぞ御朱印」というスタイル。

 

▼当社の東側は寺院が多く、南下して天王寺近くまで寺町が形成されています。

 

▼前回記事の「報恩院」の真ん前に当社の鳥居が建ちます。

鳥居は東に向かって登る坂道に面して建つので、何となく不安定さが歪めません。

御朱印を授けはじめて10年も経過しているのに

▼この左右に建つ柱の名称を最近やっと知りました。

注連柱(しめばしら)」でした。

「注連柱」の先は「梅乃橋」。

かつては梅の名所で、橋の下には「梅の川」が流れていたそうです。

 

 

▼前日の雨から晴れ上がった新緑の下の石段を気持ちよくステップします。

 

▼「手水舎」は通常の機能を果たしていました。

久々に制約のないGWだからでしょうか?

 

▼素晴らしく気持ちの良い、午前11時24分です。

もちろん気持ちよく感じるのは、前日の嵐のような雨の中を長く歩いたせいでしょう。

 

▲▼立派な尾を持つ狛犬たちの後ろの文字は・・・

風敷宇宙(じんのかぜうちゅうをしく)」「化洽乾坤(とくかけんこんす)」と読んで

「思いやりのある風が宇宙に満ち溢れるとき」

「人を思う慈しみは行動となって天と地に広がる」というような意味だそうです。

神社入口近くの「注連柱」にもこの文字が刻まれていました。

言うまでもなく

最初の一文字ずつをとって主祭神 仁徳天皇の「 」を表しています。

 

当社は866年の創建。

仁徳天皇が置いたと伝わっていた旧都「難波宮」の遺跡を探し当て、そこに社殿を築いて仁徳天皇を祀ったのが始まりとされています。

しかし、その後の大阪城築城の際に現在地に遷座させられたそうです。

 

やはり大阪大空襲で社殿はじめ多くの建物を失っていますので、現在の社殿などは戦後の再建によるものです。

 

▼「絵馬堂」はかなり新しそうです。

 

▼絵馬堂の脇から境内を出る石段は「相合坂(縁むすびの坂)」とか。

坂はほかにもう一つあり、そちらは「西坂(縁切り坂)」と案内されていました。

 

▼戦火から唯一残った形の良い建物の「神輿庫」は江戸時代の造立。

 

▼「比売古曽神社」は子授けの神が祀られています。

高津宮は古くからあるこの「比売古曽神社」の境内に遷座したということになっています。

 

▼境内右奥にある大きな稲荷社は「高倉稲荷神社」。

商売繁盛や芸能上達のご利益が得られるとか。

▼大勢の狐たちが奉納されています。

高倉」と言う文字だけでも「商売繁盛で高い倉が建つ」的イメージが湧きます。

▼社殿内をグルッと一回りすると裏側にもたくさんの神が祀られて今うs。

 

▼さらに「安井稲荷神社」が建ちます。

こちらは安産守護と案内されていました。

 

▼一つの神社に複数の稲荷社が鎮座するのはよく見かけますが、当社もまだまだ稲荷社があるようです。

 

▼「末社」と案内されている通り、崖の下を覗き込んでみると谷底に見えました。

 

▼降りてみて、途中振り返ると・・・

 

▼「陰陽石」です。自然石としたら良く見つけるものです。

」は明確ですが

▼「」はその形がもっと分かりやすい角度があったかもしれません。

また、どちらも「陰陽」兼ね備えているようにも見えなくもありません。

いつ頃からあるのか分かりませんが、子孫繁栄が大切に思われていた頃なのでしょう。

 

▼木々に囲まれた谷底は直射日光も当たらず、まさに高津宮の「異界」とも言える区域です。

拝殿があった明るい崖の上の境内とは全く違う空気が流れていて、

少しゾクゾクするような気分です。

 

▼「異界」の雰囲気を和らげようとしているのか、笑っているように見えます。

古いものなのでしょう、顔が半ばツブれてしまっている。

▼三社に祀られているのは「」「商業」「」の神。

稲荷社でもなく、狐たちもいませんでしたが、狐塚のような崖があるこの一画が一番記憶に残った神域でした。

陰陽石に惹かれたわけではありません。

もちろんその存在は、この谷に欠かせませんが・・・.

報恩院の御朱印(大阪・中央区)〜「北向き・南向きのお不動さん」に出会う(下阪 御朱印 Tour---❿)

高津山 報恩院御朱印

ほうおんいん真言宗醍醐派大阪市中央区高津1-2-28)

 

                                       (▲右の画像は報恩院由緒書きより引用)

報恩院御朱印です。

 

指定なしでお願いしたら本尊の「近畿第五番 北向不動尊」の御朱印になりました。

つまり「近畿三十六不動尊 第五番」札所の御朱印です。

報恩院はこのほか「おおさか十三仏」「摂津国八十八ヶ所」の札所になっていますので、当然そちらの御朱印もいただけるのでしょう。

 

▼心斎橋のホテルから「法善寺」、さらに1km歩いて「報恩院」門前に着きました。

 

▼実はこの寺も参拝予定していた訳ではありません。

「高津宮」を目指して鳥居に着いたら真向かいに寺があったので訪問してみたのです。

札所の案内が出ていますので、こういう寺は安心して御朱印をいただけるはずです。

 

▼「不動明王」を本尊とする真言宗の寺でした。

 

▼外から見えていたのですが、石段を上がると正面に不動明王像が迎えてくれました。

 

▼法善寺と同じようにこちらの不動明王像も露天に立ち、その手前が屋根と柱だけのお堂のような形をしていました。

寺は江戸時代初期、良遍が現世利益の不動明王信仰の世相にあった「北向不動明王」を建立したのが始まりだそうです。

 

ご多分にもれず報恩院も大阪大空襲で灰燼に帰していて、不動明王像のみが焼け残ったそうです。

 

大阪大空襲は1945年3月から8月14日の終戦日まで

断続的に8回ほどの大空襲が繰り返され、大阪市の中心部は壊滅、

1万人以上の死者が出たと言われていますので、

今回寺社巡りしてきた北区、中央区も被害に遭っている訳です。

 

▼そんななかで焼け残った「北向きのお不動さん」でしょうか?

素朴な造りの不動明王像ですが、

脇侍は通常の「制吒迦童子」と「矜羯羅童子」なのでしょうか?

これまで目にした「制吒迦童子」とは、ちょっと違う容姿をしていました。

 

 

不動明王像前では毎月1日に護摩祈祷が行われるそうです。(▼写真は報恩院FB」)

東京・深川不動で大迫力の般若心経が唱えられる護摩祈祷が思い起こさせられます。

 

▼北向不動尊から巨木を背にして、真裏にも不動三尊像。

こちらはさらに素朴な容姿の不動明王像ですが、

北向きの真裏に建つので「南向きのお不動さん」なのでしょうか?

 

いやそんな事はなく、単に古い「北向き」さんなのでしょう。

 

不動明王像が背にする古木「相生の樟(くす)」は、不動像建立と同時期に植えられ他と伝わり、戦前までは鬱蒼としていたそうです。

やはり大空襲で焼き枯れてしまったのでしょうか?

太い幹だけが、支えられてやっとこさ立っているような「くすのき」でした。

 

▼「本堂」は中央が「不動明王」、左右に「鎮宅霊符尊」「弘法大師」の扁額。

鎮宅霊符尊(ちんたくれいふそん)」は、簡単に言えば北辰妙見菩薩

年初め辰の日には「初辰(はったつ)」さんと呼ばれ、商売発達を祈願する参拝者が多いそうです。

 

本堂に棟続きの

▼「真如閣」は「おおさか十三佛」の「阿閦如来(あしゅく)」が祀られています。

阿閦如来」は「金剛界五智如来」と言われる五仏に数えられます。

 

▼「役行者」さんもいらっしゃいましたので「南無神変大菩薩!」。

ミナミの繁華街には居酒屋の「鉄板神社」が鎮座してましたが、

▼こちらは「鉄焼地蔵尊」。

焼火箸を当てられた女の身代りになった地蔵尊とか。

 

▼「秋葉大権現」もいらして火防担当!

 

▼「マニ車」がありました。ガラン、ガランと回せばお経を1巻ずつ回したことに・・。

ネパールから「おおさか十三仏」の各寺院に送られたものだそうです。

 

▼境内にサクランボのような実をつけた木が・・。おそらく、さくらんぼ!?

一つ摘んで口に入れてみれば、何の実かわかったかもしれません。

 

苔むした法善寺の「水掛不動」から、不動続きの「北向き」さんも、

前日の雨に濡れた像を乾かすかのように、明るい陽光の中で輝いていました。

 

 

 


法善寺の御朱印(大阪・中央区)〜包丁1本の「法善寺横丁」を歩く(下阪 御朱印 Tour---❾)

天龍山 法善寺御朱印

ほうぜんじ」浄土宗(大阪市中央区難波1-2-16)

 

法善寺御朱印です。

スタンダードな一体を直書きいただきました。

水掛不動尊 お初大神 金比羅天王」のスタンプが押され、

左下の寺の印は「千日前 天龍山 法善寺」。

 

▼法善寺でも限定御朱印アリでオドロキ! シールはお土産に最適かもしれません。

 

▼ミナミ、ナンバ、ドウトンボリ、センニチマエ、その区別のつかないイナカ者ですが「法善寺」は、そのほぼドマン中という事くらいは分かります。

1日目の御朱印巡りを終えた頃、雨も止んだ夕方、宿泊地に戻ってきました。

▼法善寺の御朱印は翌朝いただくことにして、周辺を歩いてみみます。

▼その名称を誰もが知っている「法善寺横丁」。

横丁の西側入口の「法善寺横丁」のカンバンは「寛美」の署名が右隅に読めます。

藤山寛美は既に亡くなってしまっている喜劇役者。

東側の入口の看板は「桂春団治」の書によるそうです。

▼横丁の片隅に「藤島桓夫」がヒットさせた「月の法善寺横丁」の歌碑。

歌碑の小さい文字はセリフ。

こいさんは『長い事 水掛不動さんにお願いしてくれはりましたなァ』なのです。

幼い頃、いろんな場面での「こいさん」を「恋さん」と勘違いしていました。

長女「とうさん」から「いとさん」「こいさん」の順ですね。

最も関西らしい言葉で、他家の娘さんの呼称です。

 

さらに横丁の名を有名にしたのは「織田作之助」の小説「夫婦善哉」。

小説は数々出版され、映画、ドラマも数多く、直近のTVドラマは2013年に放映されています。

しかし、ここまで上げた人物はすべて亡くなっています。

み〜んな、み〜んな古い話ですが、横丁の人気は変わらず生きています。

 

元は境内だったので「法善寺裏」とか「法善寺露地」とも呼ばれていたそうです。

 

 

▼ここは横丁から少し外れています。

▼法善寺の西側にある境内入口。この先の境内界隈も横丁と言っていいのでしょう。

▼「夫婦善哉」の名が小説に使われた「ぜんざい店」が現存しているのが門の奥の境内に見えます。

門前の石柱は「浪花名刹 三大不動 西向不動明王」の文字。

有名な「水掛不動」のことでしょう。

 

▼境内側から見た入口。

▼その「水掛不動」で有名な法善寺は、はっきりとしたお堂が見当たりません。

お堂はあるのですが四方、三方がオープンで、柱と屋根だけというイメージのお堂に不動尊金比羅などの諸仏が祀られているのです。

寺の創建年は江戸時代初期の寛永年間。

やはり大阪大空襲ですべて焼失され不動明王像だけが残ったそうです。

不動像は水をかけられ苔に覆われて原型をとどめていません。

苔は定期的に落とされるのでしょう。

でないと単なる苔のカタマリになってしまいます。

苔に覆われていても不動像の形を確認できないと有難味も薄れてしまうでしょう。

▼ところで、この地域は「千日前」とも呼ばれています。

いただいた御朱印の寺名も「千日前」の文字が使われていました。

では「千日」はどこにあるのかと思いましたが、

かつて法善寺で千日念仏を行ったことから寺は千日寺と呼ばれ、「千日前」の地名はそ門前に由来するそうで納得しました。

 

御朱印にも記されていた「金比羅天王」。かつてのナンバは大阪湾の港町だから交通安全を祈願したそうです。

▼授与所脇の「お初大神」はおイナリさん。曽根崎の「初天神」と間違えそうです。

大阪に下阪し、嵐の初日は終了。

道頓堀川沿いに歩き、ホテルにチェックイン。

▼ホテルの部屋は一人なのにWベッドで、どうするの?

▼ホテル1Fが、あの「コメダ珈琲」。

▼ホテルの朝食はeco人間にはボリューミー!

バカにしていた名古屋の「コメダ」。

さすがコーヒーだけは抜群に美味しくブラックでがぶ飲み、ドッグもポテトもゼリーも平らげた!

▼さて、くちたハラ抱え「法善寺」の御朱印を求め昨晩の街に出ます。

もっぱら朝はゆっくり派なのでホテルを出たのは10時頃。

▼なのに道頓堀は行列のアラシ。

前日は雨の嵐でしたが、明けて晴天のミナミは行列の嵐!

日本全国「たこ焼き」は珍しくありません。

そして、道頓堀のたこ焼きが特別ウマイわけでもないのに皆んな並ぶ並ぶ!

まぁ、大阪に来てたこ焼き、串カツを食べないのは非国民なのでしょう。

もちろん本ブログも、ここまで並ばない店でいただきました。

▼午前中の法善寺は、まだ眠っているように感じます。

▼なぜか、法善寺は夕方から夜の時間のほうが「法善寺らしい」のですが・・・

▼朝の光の中で、昨晩の夕暮れでは見つけられなかった諸仏に挨拶し・・・

▼目覚めの横丁も歩いてみます。

▼朝の横丁ですが、夜とは違う風情を出しています。

▼「浮世小路」は灯りがついたままで、まだ稼動前、眠っています。

 

夕暮れとは違う姿を見せる朝の法善寺界隈を徘徊しながら、ミナミの街中を東に向かいます。

 

 

興徳寺の御朱印(大阪・天王寺区)〜雨の大阪、初日最後「ぼさつ」に出会う(下阪 御朱印 Tour---❽)

隆法山 興徳寺御朱印

こうとくじ高野山真言宗大阪市天王寺区餌差町2-17)

本尊と准胝観音の二体を直書きいただきました。

 

▼授与所では御朱印サンプルが目移りするほど並べられていました。

 

▼本尊「薬師如来」の御朱印は「摂津国八十八箇所 第十二番」札所印でした。

▼「准胝観音」は地域のランドマークともなっている高さ10mの観音像が建ちます。

御朱印はこちらの授与所でいただきました。

この時、リュックから出した御朱印帳は浸み込んだ雨で各ページの下半分が水浸しになっていました。

嵐のような天候の中での移動で、この日の午前中にいただいた「太融寺」以後、寺院用の御朱印帳を取り出していず、濡れていることに気づきませんでした。

 

受付のステキなお姉さんは、それを見てドライヤーで長い時間をかけて、筆文字がにじまない程度まで乾かしてくれました。

▼おまけに最後には朱印帳ジップロックに入れて返していただきました。

予定もなく行き当たりばったりの寺で出会ったお姉さんは「ぼさつ」に見えました。

 

記帳した筆文字を乾かすためにドライヤーが用意されていたのでしょうが、まさか濡れた朱印帳を丁寧に乾燥いただけるとは思ってもいませんでした。

普通なら濡れた朱印帳でお願いしたら、イヤな顔をされるのがオチでしょう。

寺では法要も営まれている様子の中で、そんな対応をいただいてまさに「菩薩さまサマ」でした。

ありがとうございました。

 

御朱印巡りをしていると様々な対応に直面します。

中でも記憶に残るのは、嬉しく感じる優しい対応、反対に不快感をいだいた対応の両極端でしょう。

今回は思い出しても楽しい会話の中でいただけた御朱印でした。

 

▼「心眼寺」に隣接して大きな観音像が建つのが見えるたので挨拶に行きました。

▼長い「心眼寺」を行き来すれば必ず目に入る観音像でしょう。

▼寺の真ん前は道路を挟んで「真田丸顕彰碑」がド〜ンと置かれています。

▼茶色の土塀が「興徳寺」、その奥に小さく見える白い壁が前回記事の「心眼寺」。

興徳寺は聖徳太子時代の創建、天平年間に行基により再建。

数多い火災に見舞われ、最後は大阪大空襲で山門以外を失っていますので、主な建物は戦後の再建により現在に至っています。

▼4本の筋が入った茶の土塀との調和が美しい「山門」。

同じ真田丸地域で、三光神社心眼寺は真田山、真田丸、幸村を前面に押し出していますが、興徳寺ではそれらを何一つ謳っていません。

▼門前の石柱も「観世音三十三所」「摂州八十八箇所」「三宝荒神」のみ。

▼それらより、真田丸のどこよりも存在感のある高さ10mの「准胝観音」が建つことで十分なのでしょうか。

 

経験のみで言えば、この手の像が建つ場合ビジネスライクな匂いを強く感じる寺院が多く、さまざまな対応も期待してはいけないと理解していました。

 

 

しかし興徳寺では御朱印の種類の多さを除けば、それらは感じられませんでした。
それより境内のあちらこちらに参拝者を和ませ、楽しませる工夫が見られました。

 

 

そして、大きな像で人目を引く寺に抱いていたイメージは、御朱印対応いただいた「ぼさつさま」に払拭されました。

 

 

外見だけの判断は決してするものではないことは分かっていたはずですが・・・。

 

そんな考えも異にさせられたこの寺に出会えたことに「薬師瑠璃光如来」と「おびんずる」さんに感謝しました。

 

 

▼「融通地蔵」にお互い理解し通じ合う「融通無碍」なる言葉を教えられたようです。

▼「立里 三宝荒神 分社」とあります。

立里荒神(たてりこうじんしゃ)」は空海高野山を開創する際に祀ったと伝わる奈良県にある神社で、火の神、台所の神として崇められているそうです。

▼不動像は水をかける仕組みになっているようですが、すでに雨水でびっしょり。

 

隣の心眼寺より少し広い境内のように感じましたが、同じく小さな変わりはありませんでしたが、見どころたっぷりの両寺とも天候の良い時ならば、もう少しゆっくり楽しく散策できたことでしょう。

これも縁ということでしょう。

心眼寺の御朱印(大阪・天王寺区)〜真田幸村「出丸城跡」に逢いに行く(下阪 御朱印 Tour---❼)

真田山 心眼寺御朱印

しんがんじ」浄土宗(大阪市天王寺区餌差町2)

書置きが入れられていた封筒は、バサッとした男のように潔く「朱印」。

 

心眼寺御朱印です。

大阪四十八願 阿弥陀巡礼 第十一番」札所の御朱印になるようです。

HPによると「大阪新四十八願阿弥陀巡礼」となっていて、やはり関西は霊場が無数にあるように感じます。

キラビやかな限定御朱印を追うのではなく、各霊場を巡りながらいただく御朱印ならば、関西では事欠かないかもしれません。

 

中央は本尊「阿弥陀如来」の梵字に「真田幸村」の筆文字が重ねられています。

今回の大阪での書置きは2度目になりました。

 

▼前回記事の「三光神社」の裏手、すぐ東に「心眼寺」の山門が開いています。

タモリがブラブラしていたのも、この付近でしょう。

 

▼「心眼寺」の途中に寺境内へ上がる石段。

この地域も「上町台地」の中でしょうが、東京人には不案内。

しかし「三光神社」裏の真田山の東側になり、その起伏が坂となっているのでしょう。

そして「ここから ここまで」と特定はできないものの大坂城の出丸「真田丸」が築かれていた地域です。

心眼寺の創建は安土桃山時代で、後の冬の陣で取り壊され、さらに1622年真田幸村らの供養のため冬の陣の陣地跡に再建されています。

近代に入っては大阪大空襲で堂宇を失い、現存する建物は近年のものでしょう。

▼石段の上には「京都見廻組 墓所」の石柱が建ち・・・

▼さらに、六文銭と「真田幸村 出丸城跡」と刻まれた石碑も建ちます。

三光神社では御朱印も幟も「真田山」と記し、「抜け穴」もありますが、

こちらはきちんと「」と言い切っています。

大阪市教育委員会のお墨付きもいただいているので正しいのでしょう。

 

▼一般的には心眼寺とは坂道を挟んで反対側にある「大阪明星学園」の敷地が「真田丸」とされています。

しかし、その形状さえハッキリしない真田丸

この近辺のどの寺社が「真田丸」と言ったとしても間違いではないのでしょう。

とりわけ、真田家先祖の助力により再建された歴史を持つ心眼寺は「」と言い切る資格を持っていると言えるかもしれません。

同じく間違い無いのは、NHK大河ドラマに限らず、歴史好きには心眼寺や、周辺地域は聖地のようです。

いつも思うことですが、寺社は形としてある歴史の宝庫なのです。

心眼寺は規模的にはカワイイ寺ですが、もう一つ有名なのが、この「地蔵堂」。

▼「まんなおし地蔵尊」という珍しい名称の地蔵が祀られています。

「間が良い」「間が悪い」などという言葉は運、めぐりあわせなどの意味でよく使われますが、「まんなおし」さんは「間の良い」方に直し、不運を幸運に直していただけるそうです。

▼こちらの石碑は「真田左衛門佐豊臣信繁之墓」と書かれています。

真田信繁(幸村)の墓は人気者だけに全国に多数あります。

信繁の菩提を弔うため創建された寺ですが、この墓碑は信繁四百回忌に合わせて2014年に建立されたそうです。

ちなみにNHK大河ドラマ真田丸」は2016年に放映されていますので、ファンが聖地を巡るのにはタイミングの良い「間の良い」建立だったと言えるでしょう。

雨の心眼寺を出ます。

▼冒頭に掲げた写真をもう一度貼ります。心眼寺の隣に巨大な像が見えていました。

▼近寄ってみると観音らしき巨大像。

ついでと言ったら失礼ですが、全く訪問予定にない寺に建つようですが、寄ってみることにして次回記事とします。

 

▼「真田」関連記事です。

wave2017.hatenablog.com

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