佳木山 宝樹院 太融寺の御朱印
太融寺は「新西国三十三ヶ所」「近畿三十六不動尊」「摂津国八十八ヶ所」などなど多くの霊場札所となっています。
今回は霊場めぐりでなく参拝記念ですので、何も指定せずにお願いしたところ
本尊「千手観音」が祀られている本堂の「大悲殿」が墨書きされた「新西国第二番」の御朱印となりました。
▼曽根崎の「お初天神」から500mほど歩きました。
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▼大阪ではよく繁華街を指すのに「キタ、ミナミ」と言いますが、まだここは「キタ」になるのでしょうか?
「曽根崎」は「キタ」のハズレかもしれません。
東京人にしてみたら「キタ、ミナミ」の範囲や境界がよくわかりませんが、大阪人にとっても、そこらへんは曖昧なのでしょう。
▼雨の中、そんなことを思いながら歩いていると、ビルの谷間の先に寺らしき姿。
▼どうやら「太融寺」の山門「西門」のようです。
石碑に「源融公之舊磧」と彫られているのは、嵯峨天皇の十二男である「左大臣 源融」がこの寺の七堂伽藍を整えたことにちなみます。
光源氏のモデルとも言われる「源融(みなもとのとおる)」の一文字をとって「太融寺」と名付られたそうです。
寺の始まりは、それより少し早く821年に弘法大師が草庵を結んだと伝わります。
▼こちらは境内南側にある「南門。
▼最初に「本堂」の観音さまに挨拶です。
▼おなじみ「大悲殿」は悲しいわけではありません。「慈悲」の心を表しています。
▼「鐘楼」は昭和の再建。
▼雨の中でも境内東側にハデに目立っていたのが永代供養のお堂「八角堂」。
▼「淀殿之墓」が案内されています。明治期に弁天島からここ太融寺へ移転されたそうです。
▼1615年「大阪夏の陣」で大阪城と心中、自害した「浅井茶々」はこの片隅で静かに眠ります。
壮絶で悲劇的とも言える人生をおくった淀殿ですが、今は六重石塔の下で心安らかかもしれません。
▼その近くに「水子地蔵」や「千成地蔵」が並びます。
▼木々に隠れるように建つ朱の鳥居は神社らしき様子。
▼「白龍大神」は縁結びのご利益があり、多くの女性が参拝するとか。
▼「弘法大師」は厄除けの仕事を引き受けています。若い頃の空海像かな?
「ぼけ封じ」とか「がん封じ」「ぽっくり」などはよく目にしますが、そんな霊場とか観音さまが昔からあったわけでなく、現代の需要に応えて創られたものなのでしょう。
▼いずれにしてもここは真剣にお参りしてみましょう!
▼雨に濡れて茶色になってしまっていますが「白衣観音」。観音さまだらけです。
▼三重塔、五重の塔かと思いきや、下層部分は普通の建物になっている「宝塔」。
太融寺の堂宇は大坂夏の陣で灰燼と帰し、再建の後も大阪大空襲で全てを焼失していますので、建物は戦後になってからの再建。
古刹ではあるものの古さを感じさせる建物は見つかりません。
▼込み入った建物の奥に「一願堂」。太融寺の核心部分かもしれません。
この建物の上が三重塔かのように見えた「宝塔」になっています。
多くの参拝者がここまで足を延ばし参拝されていました。
▼薄暗い建物の中で黒い影になっているのは「一願ふどう」と呼ばれる不動明王像でした。
▼さらに奥まった場所に「奥の院」。洞窟内に石造の不動明王が祀られています。
▼なんとも可愛らしい稲荷社の「榎木稲荷」。この一画はとても良い雰囲気。
▼片隅に鎮座する「北野弁財天」。
さて下阪1日目はまだ午前中。体力も有り余っています。
あいにくの雨でしたが次に向かいます。