▼残念ながらここも社務所はお留守。内部を無断で撮影しました。
しばらく時間をやり過ごし、再び訪れても同じ状況でした。
「八溝山麓十宝めぐり」の色紙もありましたが、セルフで押す十宝の印は無さそうだし、このスタンプ目的の方はどうするのでしょう。
やはり今回スタートの「鷲子山上神社」で「八溝山麓十宝めぐり」の色紙を購入しないで正解だったようです。
「十宝」のうち、乾徳寺とここ那須神社で2回つまずくことになります。
▼上の写真を撮り、よく見ると「朱印郵送案内」が置いてありました。
なるほど、留守になることが多い社務所のようです。
ここも地方の神社ですのでやむを得ないでしょう。
せめて郵送案内があるだけマシ、救われものです。
のちほど帰ってからお願いしてみることにしましたす。
▼ということで後日、簡単なご挨拶とともに郵送されてきた御朱印です。
訪問時の日付が入れられていました。
「金丸八幡宮」のスタンプは、明治に「那須神社」と改称される前の名称です。
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▼R294から外れて、少し西にバイパスを走ります。
▼神社の西に「道の駅 那須与一の郷」が隣接しています。
そうです! 那須というと
茶臼岳、殺生岩、御用邸、温泉、牧場、レジャーランド、アウトレットなどなど
挙げたらきりが無く、首都圏からも人気の観光地。
▼しかし、もう一つの那須は「那須与一」です。(写真は【wiki】)
与一は平安時代末期の実在の武将ですが、平家物語の「屋島の戦い」で、
扇の的を射抜く話だけが有名になっていますが、与一に関する具体的で確かな事柄は少ないようです。
この地域で生まれ、墓所は京都と大田原市になどにあるそうです。
▼そして、那須与一が奉納したと伝わる太刀を社宝とする那須神社です。
▼「軍馬慰霊碑」。ここ那須地域は軍馬を育て、都に献上していたのでしょう。
▼長い参道は流鏑馬神事にも利用されるそうです。
隣接する道の駅には「那須与一伝承館」もあり、多くの車が駐車していましたが、
この神社で訪問者と出会ったのは2組だけ。
本殿と楼門が国重要文化財に指定されている神社ですので、参拝者はもっと多くて良いはずなのですが、
道の駅と神社を道路が横切って分断しています。
この神社にもっと参拝者を導くためには、道の駅と神社を一体化すべきでしょう。
道の駅併設の「那須与一伝承館」から、参拝者を誘うもう一つの参道を設ければ、
必ずや人々は足を向け参拝する人が多くなるはずです。
もっとも、いまひとつ境内整備が必要かもしれません。
文化財の楼門から社殿に至る区画は「ジメッ〜」とした感じがあります。
▼手水舎は正しく水が流れ、柄杓も取り払われていません。これでいいのです。
▼この辺りから「ジメッ〜」とした感じを抱きます。
もちろん、アッケラカン!よりステキに感じますが、
一般向けにはもう少し乾いたイメージが必要なのでしょう。
▼社叢をバックに荘厳華麗な「楼門」は江戸時代初期の建立です。
神社自体の創建はもっともっと古く、仁徳天皇の時代と伝わりますので、詳細は不明でしょう。
▼内側から見た楼門。
▼「拝殿」もとてもいい雰囲気ですが、観光客を寄せ付ける姿ではありません。
▼扁額はかつての神社名称「総社八幡宮」。
「宮」の文字が微妙です。
「宮」のウ冠の下「呂」の字に「ノ」が無く、口と口が繋がっていません。
創建の古い神社は「ノ」が無い「宮」の文字が使われていますが、例外的に東京の明治神宮は「ノ」が使われていません。
お手持ちの御朱印で確認してみてください。
「宮」の文字の話は長くなってしまうので、知ったかぶりの受け売りを少しだけ。
「宮」の字のうち「呂」の字は、建物を表す「口」と「口」を繋ぐ廊下を表す「ノ」ということだそうです。
古い宮は建物と建物を繋ぐ廊下や回廊がまだなかったので「ノ」字のない「宮」の文字が使われていたそうです。
▼もう一つの文化財の「本殿」の写真を撮り忘れました。(写真は【文化遺産オンライン】)
▼拝殿前の楼門内側は、やはり観光客を導くにはもう少し手入れが必要のようです。
しかし、観光客誘致だけが唯一神社の生き残る道ではないかもしれません。
神々の息遣いを感じられるのは、現在の姿の那須神社だからこそでしょう。
ここが多くの観光客、訪問者、参拝者であふれたら、神は少し「引く」でしょう。
東京都心の洗練された寺社に神仏を身近に感じることは難しいように思います。
そんな寺社と比較すると、今の姿を少しでも残して欲しいと勝手な思いもします。
地方の神社経営の難しさも感じられた那須神社参拝でした。