8月11日最後の訪問地。
▼南湖神社から少し戻ることになりますが、ホテルチェックイン前に「白河関跡」に寄ってみました。
関跡ですのでジミです。特に観光的に目を見張るものはありません。
▼しかし古い時代の案内も建つ史跡なのです。
「古関磧」「ほろ掛楓」「二位の杉」「旗立櫻」などの文字が刻まれています。
関は8世紀頃にはすでに設けられており、奈良時代から平安時代頃までに機能していた国境の関門です。
蝦夷(えみし)の南下や人、物資の往来を取り締まる機能を果たしていたと考えられています。
東山道にあった東北地方への入口でもあり、ここから先が後に言うところのいわゆる「みちのく」なのでしょう。
義家や義経などの伝説があり、
律令制の衰退とともに関としての機能を失った後も、
都の文化人たちの憧れの地となり、和歌の名所(歌枕)として知られるようになり、西行、松尾芭蕉なども足跡を残しています。
そして1800年、南湖神社に祀られている松平定信の考証によって、この地が「白河関跡」であると断定し、当時の石碑が残ります。
芭蕉が関を越えたのは、もっと前の時代で定信が「断定」する前ですので、以前から「おそらくこの辺」とされていたかもしれません。
関跡の背後の山には神社があります。
しかし神社名を表すものは何もありません。
名もなき神社かと勝手に判断し、時間も夕方5時過ぎなので鳥居の先には足を踏み込んでいません。
しかし、ここは「白河神社」だったことは東京に戻ってから知り、御朱印もいただけるそうですが、すべては「あとのまつり」です。
▼関跡の50m先に白河神社の社務所があったのです。
(写真は【googlemap】ストリートビューから拝借)
南方面から関跡を訪れていれば社務所に気づいたはずですが、南湖神社参拝あとの訪問ですので北方面からでした。
したがって全く気づかなかったのです。
周辺をもう少し注意深く案内板などを観察していれば白河神社であることに気づいたかもしれませんが、観察力の無さが災いしています
もっとも社務所を見つけていても、時間は5時過ぎでしたので御朱印を手にすることはできなかったかもしれません。
と、自らを慰めます。
とにかく「大失敗」でした。やれやれ!
▼そんなこともまだ気づかず、この日の宿泊ホテル。
ボンビーとは言え、ここまで安いところを探しますか? 税込4,700円!
5000円以下の宿泊はこれまでも2、3回経験済み。
▼予約時点でどんな悲惨なところか、だいたい想像できます。宿泊翌朝の写真。
ビルの2F、1フロアだけをホテルにしていました。
室内の写真は撮り忘れましたが、少し広めの普通のビジネスホテルの部屋。
車は地下駐車場に入れられました。
一人寝るだけのホテルでこの料金。な〜〜〜〜にも不満はありません。
しかしここは新幹線の「新白河駅」ではなく、在来線の「白河駅」が最寄り。
「大工町」という地名が示すように旧来からの街の中にありました。
ホテル前の「門前通り」は何もないと言ってもよい状態。
2、3店舗ある飲食店も閉まっていました。コロナの影響でしょうか?
▼夕食用に目星をつけた店舗は、どの店も休業中。
結局オープンしていたのは駅前の「ローソン」と少し離れた「ヨークベニマル」だけ。
▼仕方なく食べ物、飲み物を買って部屋食。かなり「ヘン」な買い物をしてしまいました。
遅めのランチが道の駅「那須与一の郷」で850円の天丼でしたので、こんなもので良いでしょう。
▼翌朝、部屋まで運んでくれたホテルの朝食。
いささか情けない朝食ですが、これにサラダがついて入れば文句なし。
しかし¥4,700ではぜいたくは言えません。
腹一杯になり、とってもおいしかったコーヒーだけが記憶に残りました。
白河の街は「旧奥州街道」「外堀通り」「大手門通り」などの通り名があり、
城下町らしい雰囲気を持つ場所なので、駅北にある「白河小峰城」などをゆっくり見て回れば、白河の魅力を満喫できるかもしれません。