文知摺観音の御朱印
「もちずり かんのん」安洞院:曹洞宗(福島県福島市山口文知摺前70)
▼文知摺観音の御朱印です。
右上の印は「信達第二番」となっています。
読みが分かりません。調べてみました。
福島に「信達三十三観音霊場(しんたつ さんじゅうさん かんのん れいじょう)」という古い霊場があるらしい。
もちろん、御朱印ブームでこの霊場も見直されているのでしょう。
昔、大阪府にも信達町(しんだちちょう)という町があったそうですが、それとは違って、話はややこしい。
かつて福島県に信夫郡(しのぶぐん)と、伊達郡(だてぐん)という地域があって、
それを「信達」と呼んだらしい。
「信達」=「しのぶ」に「だて」ですが、読みは「しんたつ」だから話は面倒臭くなります。
「のぶお」や「のぶたち」あるいは「しんたち」と読みたくなってしまいます。
中央の墨書きいただいた観音名「文知摺(もちずり)」も最初はまともに読めないし、知らぬ言葉に意味も分かりません。
さらに「別当 安洞院」という墨書きがありますが、平成28年から「普門院」になってるそうですが、新しい別の寺院が管理するようになったという事でしょうか?
分からないことばかり多いのに、御朱印だけチャッカリいただいてきたという事になります。
▼福島市に土地カンはまったくありません。
福島駅の東、直線距離5kmのほどのところに「文知摺観音」はあります。
2015年のことです。なぜここを訪問したのかも、もう定かではありません。
もちろん御朱印をいただくために参拝したのは確かですが・・・。
ところが撮った写真が3、4点しかありません。失くしたのか、撮らなかったのか?
分からないことばかりの「文知摺観音」なのに写真がないのでさらに闇です。
当院には大きな石や句碑、石碑がたくさんあります。
しかし訪問時の当時はそれらに大きな興味はありませんでしたので、写真も撮らなかったかもしれません。
そして何よりは事前知識を持たなかったことです。
だからこの地の歴史も知らずに訪れたという、勿体無い訪問だったわけです。
まだまだこの頃は単純に「御朱印集め」だったのです。
その姿勢は変化していると思っている現在ですが、大きくは変わっていないかもしれません。
▼こちらが「信達三十三観音霊場 第二番 文知摺観音」観音堂です。
向拝の左柱には「奥の細道三十三霊場 第二十九番 」の札も掲げられています。
いやはや、全国に無数にある「三十三霊場」を改めて知らされます。
寺の敷地は広いのですが、この時は鐘楼などは別にして主な伽藍がこの観音堂しか見つかりませんでした。
地蔵の足元を縄で結わえておいて、家出人や行方不明者が戻ってくるご利益を祈ったそうです。
▼この写真はどのお堂内部を撮ったものか記憶なしです。
観音堂内部でなかったように思いますが「三十三観音」が勢ぞろいです。
▼この写真も境内にある池でしょうが、何となくパチリしただけでしょう。
僅かな紫陽花が咲き残っていました。
ここまで「あんまり」な記事なので「ふくしまの旅」さんのステキなページから引用させていただきます。
小倉百人一首の歌枕の地であり、松尾芭蕉、正岡子規などが訪れた場所です。境内には観音堂、多宝塔、もちずり石、資料館「伝光閣」などがあります。行基菩薩作といわれる秘仏観音像のご開帳は33年に一度で、次回は2049年に行われる予定です。
京の巡察官・源融(みなもとのとおる)と山口長者の娘・虎女(とらじょ)の悲恋物語で知られ、「もちずり石」に源融の面影が浮かんだと伝えられています。
分からないことと、多くの記憶を失った文知摺観音でしたが、
▼しっかり記憶にあるのはこの安い夕食。
文知摺観音の参拝を終え、福島から宿泊先の郡山まで走り、
郡山駅構内で食べた「まぐろ三昧丼」です。
しかし、これが安かろう不味かろうで文句は言えないものの、凍っていました。
冷たくて歯にしみ、あのマグロのウマ味なんて全くなし。
オドロイた食べ物でした。
右上のデザートのつもりらしきオレンジが悲しい!
ヒドイ記事になりましたが、
「文知摺観音」はヒドくはありません。
皆さんが訪れたら、とても素敵な多くの発見があるに違いありません。