正式名称は地名の「駒木」は用いず、単に「諏訪神社」または「諏訪之宮」です。
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以前にも関連を記事にしましたが、
「豊四季」はという美麗な名称は、千葉の地域一帯が明治時代に開拓された13の入植地のうち4番目ということで「豊四季」の地名が付けられたそうです。
13の入植地は、初富、二和、三咲、豊四季、五香、六実、七栄 、八街、九美上、十倉、十余一、十余二、十余三と続き、成田方面まで広域に広がっています。
どの名称も入植の願いが込められた、明治期らしい地名となっていますが、
「豊四季」だけは、何となく昭和のイメージっぽく感じるのは本ブログだけかもしれません。
時は過ぎて「流山市」となったこの地域は「つくばエキスプレス」の開通で都心へのアクセスがよくなり、比較的若者にも人気のある街のようです。
▼そんな街に「駒木のお諏訪さま」とも呼ばれる神社が鎮座します。
諏訪大社を総本社とする「諏訪神社」は全国で25,000社あるそうですから、
「おすわさま」と親しみを込めて呼ばれる神社も多数あります。
東京ですと新宿や日暮里などの「諏方神社」も「おすわさま」と呼ばれるそうです。
全国で数多く「おすわさま」と呼ばれているのでしょう。
▼「駒木のお諏訪さま」は参拝者を義家の献上馬が迎えてくれます。
平安時代、八幡太郎が「後三年の役」の際、この地域で軍馬の調達をし、
勝利後の帰途、立ち寄って献馬をしたと伝えられています。
その900年前の献上馬を、かたどったのが上の写真の社頭に建つ像だそうです。
▼境内にも別の「献馬」が義家とともに建ちます。
いつものように大概「義家」か「頼朝」の伝承が残る関東の古い神社です。
広く深い森が続く境内は、
御朱印に墨書きされた「諏訪之宮」の名にふさわしく、まさに「宮」です。
高い木々に阻まれて天気の良い日中でも、境内は木漏れ陽の光しか届かず、少し暗いイメージも抱かないわけではありません。
アッケラカンとした明るい神社より、
歴史を感じさせられるのも深い「森」の木漏れ陽が演出しているからかもしれません。
▼主祭神を健御名方富命(たけみなかたのみこと)とする当社は
807年のおこりと伝わります。
天武天皇の子、高市皇子の末裔たちが新天地を求めて、森も水も豊かで肥沃なこの下総に移住し、田畑を墾き、農業を営んで集落を造り、
信濃国諏訪大社からいただいた御神額をもって神社としたそうです。
平安時代初期のことになります。
ところで鎮座地「駒木」の地名由来はいくつかあって、
かつては「古牧」であり駒木と変化したとか、
源義家が奥州征討時に諏訪神社の木に馬(駒)をつないだことから駒木とされた、と言われています。
駒ケ岳や東京の駒形、駒沢、駒込なども同様でしょうね。
どちらにしても元々この地は軍馬の産地でもあったことから「駒」の文字が用いられたのでしょう。
サラブレッドではなく「駒」ですから、社頭に立っていた「献馬」は少しスマート過ぎるようにも感じます。
馬(駒)とつながりの深い神社ということになります。
広大な境内を持つ諏訪神社には、たくさんの境内社が建ちますが、時間切れのドタバタで参拝できていません。
▼瓢箪から駒のような、神社とは直接関係のなさそうな像も多く建ちます。
▼山上憶良も神社とは関係なさそうです。
と、関係のない写真ばかりではなく、
境内社の参拝とともに写真も撮るべく是非とも再訪したい神社です。