甲府五山の御朱印
「こうふござん」圓光印・法泉寺・東光寺・能成寺・長禅寺
「甲府五山」は京都・鎌倉の五山制度にならって、武田信玄が定めたと伝わる寺格で、元は「御城附御祈願所五山」と呼ばれていたそうです。
ブログタイトルを「五山」としたものの、残念ながら2013年時点の長禅寺では御朱印対応はありませんでした。
2021年現在でも御朱印対応は同様のようです。
したがって御朱印は未完成の「四山」となりました。
4体の御朱印に押されている「甲斐百八霊場」には長禅寺も名を連ねているのに御朱印がないのは少し解せませんが、
この霊場は「テレビ山梨」の選定ということなので、その辺に問題があるのか、
いずれにしても「禅寺」でいまどき御朱印対応ナシは珍しいかも。
▼「五山」は甲府駅の東から北に集中していて、徒歩でグルッと巡ると10kmくらいになりそうです。
でも、気候の良い時ならば変化のある道程を歩いて巡るのも悪くない距離でしょう。
▼法蓋山 東光寺の御朱印。(臨済宗妙心寺派/甲府市東光寺3-7-37)
御朱印は、出かける間際の寺の奥様らしき方に渡していただいた書置きです。
女性は慌ただしく車で出かけられ、寺はほぼカラッポ状態。
それでも何の問題もないのでしょう。ノンビリしたものです。
▼車での訪問でしたが、周りに葡萄畑が点在する東光寺には思うように辿り着けませんでした。
「山の手通り」という幹線道路から入って、思いっきり狭い坂道を、対向車が来ませんようにと祈りながら下り抜けた記憶が鮮明です。
東光寺は戦国時代、武田信玄の嫡男 義信が謀反の疑いをかけられた際に幽閉され、ここで亡くなったと伝わる、広い境内を持つ寺です。
織田氏の侵攻によって滅ぼされた武田氏ですが、その際に東光寺も焼き討ちに遭っています。
▼しかし仏殿だけは、戦時中の甲府空襲でも無事切り抜けています。
室町時代の建立とされる禅寺ならではの姿を見せる仏殿は、国の重文に指定されています。
鎌倉の建長寺の開山は渡来僧 蘭渓道隆ですが、荒廃した東光寺も禅宗寺院として再興したそうで、禅庭も道隆の手による築庭と推定されるそうです。
▼定林山 能成寺の御朱印。(臨済宗妙心寺派/甲府市東光寺町2153)
「佛心」の文字は禅寺で御朱印に用いられることはありますが、
特徴的な「◯」が墨書きされた御朱印は、他の寺ではあまり見かけません。
「◯」は「円相」と呼ばれ、宇宙の真理と、禅宗で「悟り」の形を表しているそうですが、見る人の解釈に任されるそうです。
「円相」という文字を見たら、昨今の「円相場」が気になる人もいるでしょう。
やはりこの寺も武田氏と関わりがあり、武田信守が開基とされていて、整えられた庭が印象的でした。
庫裏で何か書き物をされていた様子のご住職に、丁寧な御朱印対応いただきました。
赤穂浪士のひとり大野九郎兵衛の墓があるそうですが、未見で寺を後にしました。
▼瑞巌山 圓光院の御朱印。(臨済宗妙心寺派/甲府市岩窪町500-1)
「信玄公守本尊」と墨書きされていますが、
信玄が守本尊としていた「刀八毘沙門天」と「勝軍地蔵尊」の二体が円光院に安置されているそうです。
▼2013年初秋の11月は、まだまだ御朱印を求める人も少なく、甲府の寺はどこも静かで、参拝者とはほとんど出会いませんでした。
▼寺名「円光院」の名は信玄正室 三条夫人の法名にちなむそうです。
信玄公夫人は50歳の時に信玄より先に旅立ったそうです。
▼金剛福聚山 法泉寺の御朱印。(臨済宗妙心寺派/甲府市和田町2595-4)
御朱印墨書きに「武田勝頼公菩提寺」とありますが、「五山」はすべて武田氏親族の菩提寺となっています。
▼法泉寺は、鎌倉 円覚寺の住職となった夢窓国師の高弟による創建とされ、恩師の名を残し開山は夢窓国師とされています。
法泉寺は武田勝頼の墓所でもありますが、県内甲州市にある景徳院にも勝頼の墓所があります。
法泉寺の名も、勝頼の戒名「法泉寺殿泰山安公大居士」にちなむ名称だそうです。
急いで駆け抜けた「甲府五山」でしたが、
甲斐国に点在した古刹を城下に集めてできた「五山」は、京都・鎌倉のような順序はないそうです。
▼最後に未訪問の長禅寺の写真を「wiki 長禅寺」からお借りしました。
戦国時代の武田氏あっての甲府の寺々ですが、機会を見出してもう一度じっくりと再訪してみたい寺ばかりです。