▼新那智山 今熊野観音寺 西国三十三観音15番札所の御朱印です。
(真言宗泉涌寺派・)
▼同、今熊野観音寺 西国の御詠歌です。
▼今熊野観音寺は複数の霊場札所となっています。当然その数の御朱印があります。
6つの御朱印が案内されていましたが、西国札所が軽薄なイラスト付き限定御朱印を授与するはずがありませんので、これは現在も変わらない6種類だと思います。
訪問は西国観音の参拝でしたので、本尊と御詠歌のみいただきました。
いずれにしても同時に2体以上いただきませんが・・・。
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▼これから撮影でしょうか?
舞妓さんが急ぎ足で歩む東福寺近辺から今熊野観音寺を目指します。
▼いつものように google map を頼りに最短距離のつもりで進んでいると閑静な住宅地の外れに導かれ、その先の森の中の細道を左へ降ることになりました。
▼すると森の中で異様な雰囲気の場所に出くわしました。「五社之瀧」とあります。写真は明るくしていますが、現場は木々に覆われて薄暗い中を、大小幾つもの鳥居が建ち並んでいます。
鳥居がありますので神社かと思いましたが、社殿らしきものは見当たりません。
奥まで鳥居がいくつも続いていて、どこかで微かな水の音がします。いかにも神聖な場所的雰囲気の中を水の音の方に進んでみます。
▼樋から水が出ているのが下方に見え、谷底のような場所に流れ落ちているようです。
あとで調べたら東福寺に五社成就宮 五社大明神があり、その修行の場である「瀧修行の場」だったようです。
落ちていた水は東福寺境内まで流れているそうです。
京都の奥深さのような感じを抱きましたが、軽はずみな気持ちで足を踏みいれるような場所ではなかったかもしれません。
▼異様な空間だった滝修行の場を抜け、泉涌寺の脇を通って進むと今熊野観音寺の鳥居橋で出ます。鳥居もないのに「鳥居橋」ですが、古には熊野権現が祀られていたそうです。今熊野というのはここの地名にもなっていますが、なぜ「今」という文字がついているのか、また熊野信仰が先か、地名が先かわかりません。
近くには新熊野神社もありますし、もうみんな一緒だった時期があったのだろうと理解しますか!
「今」は「いまひとつ」、「さらに」の意味で使われているのでしょうか?
「いまひとつ」の「もうひとつの」熊野という意味で・・。
HPに「大同2年(807)、弘法大師(774-835)が熊野権現のご霊示を受けてこの地に庵をむすばれた」と紹介されていて、熊野修験が盛んになり、西国札所として定まったのは室町時代だそうです。
▼京都街中の西国札所とは違い、ここは山麓の広大な境内に諸堂が建っています。
▼かけあし気味の京都寺巡りですので、ここではゆっくり伽藍を見て回れず、齧っただけというような訪問になっています。
▼1712年建立の本堂には秘仏の本尊 十一面観世音菩薩のほか大聖歓喜天、薬師如来、准胝観音、三面大黒天などが祀られているそうです。
▼大師堂は東山大師と呼ばれ、大師信仰の方々の参拝が絶えないそうです。
▼大師堂の手前には足元の子供2人と立つ「ぼけ封じ観音」。
後白河上皇の永年の持病の頭痛がこの観音様によって平癒したことから、人々には頭痛封じの観音様として、また智恵授け、ぼけ封じのご利益もあるとされ、頭の観音様とも呼ばれているそうです。
また、平安時代の才女 清少納言はこの付近で生まれたそうです。
仕えた皇后定子に寵愛を受け、その間、枕草子を綴りますが、皇后定子崩御の後に宮仕えを辞め、その後の清少納言の消息はまったく不明です。
定子皇皇后を葬る鳥戸野陵が観音寺近くに造営されていますので、清少納言も自分が生まれ育った観音寺近くに建つ亡父の山荘に住み、御陵に詣でつつ晩年を過ごしたのではとも推測されています。
そうならば、晩年の清少納言も御陵とともに、ここ観音寺も詣でたに違いありません
そんなことを思い描いて歩くと、眼に映る帰り道の景色も違って見えてきます。
春はあけぼの 夏は夜 秋は夕暮れ 冬はつとめて・・・。
見上げる木々を渡る風、寒気に満ちた突き抜ける空の青さは、清少納言の耳目が反応した平安時代となんら変わらないものでしょう。
▼帰りはまた泉涌寺前を通ります。ここもぜひ訪れてみたい寺ですが・・。
▼西国観音霊場の記事です。