(臨済宗相国寺派/)
▼流石京都です。御朱印説明も大きな英文で記されていました。
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▼拝観料と引き換えに由緒書きと守護札の印刷物を渡されます。
いろんな面で銀閣寺と比較される金閣寺の観光は京都初心者の王道です。
従って金閣寺は修学旅行始め、ツアー客も多く拝観者は団体が目立ちます。
これに対して銀閣寺は団体客もいるものの、個人客のほうが多い様に感じられます。
俗世間と境を造るような銀閣寺垣を進む拝観客も多人数の団体客は少な目です。
銀閣寺という通称は江戸時代に呼ばれるようになったそうで、金閣寺同様に臨済宗総本山 相国寺の境外塔頭で、正式名称は「慈照寺」。
▼鹿苑寺 舎利殿が金閣と呼ばれるのに対比して、慈照寺 観音殿が銀閣と呼ばれるようになったのですが、現在ではそれぞれ寺全体を指して銀閣寺、金閣寺と呼ばれています。
1482年の建立の寺は当初は室町幕府8代将軍 足利義政が隠栖するための山荘でした。
義政の死後に法号 慈照院から「慈照寺」として寺となっています。
▼義政が俗世間を逃れて静かに暮らすことを目指したのですから銀箔などは施されておらず、銀色に輝くこともない銀閣寺です。侘び寂びの東山文化ですが義満がここに移り住んだ当時は、まだ完成されておらず、義満の死後に造営の多くが整ったそうです。
▼銀沙灘や向月台も義政の死後どころか、江戸時代後期に造営されたもので、義政が望んだものではありません。
▼大相撲の土俵のような銀沙灘はまだしも、モダンなモニュメントの向月台は「侘び寂び」の世界からは違和感を覚えますが、今や銀閣寺の代名詞の一つでもあります。
▼方丈の扁額「東山水上行」は「とうざんすいじょうこう」と読むそうで禅語です。
「東の山が川の上を流れて行く」という意味だそうですが、
この言葉は茶道の掛け軸などに用いられることもあるそうです。
山が川の上を流れるはずもなく奇異な言葉ですが「悟りの境地」を示す言葉だそうです。
▼この位置から見ると観音堂、向月台、銀沙灘は調和しているように思えます。
銀閣寺の完成を見る事なくこの世を去った義政ですが、混乱する政治を嫌ってここを隠栖の場所としたものの、8代将軍であったその権力は手放さなかったようです。
山荘の造営が始まった時期は、10年以上続いた応仁の乱がようやく治った頃で、当然都の経済、幕府の財政は疲弊していました。
そんな情勢のなかでも義政は特別な税を取り立てて、この山荘を造営しています。
「隠栖生活」を営む場所と言うならば、もっと小規模な山荘であってもおかしくないのですが、そこは将軍の隠栖です。
ワタシたちの想像を超える力を持っていたのでしょうし、3代将軍 義満の金閣寺をならって造営したことも分からないではありません。
▼東求堂は義政が最も愛した書院「同仁斎」があり、4畳半の始まりの場所とされています。
山荘の完成を待たずに移り住んだ義政ということですが、少なくとも東求堂は出来上がっていたということでしょうか。
▼現在は寺の近くまで市街地となっていますが、建立当時は前方の山の向こう側にあるだけで、山が市街の遠望を隠していました。それも京都に背を向けた義政の意向だったかどうかはわかりません。
義政に関しては善悪いろいろ取りざたされますが、現代に伝わる銀閣寺、水墨画、能楽、生け花などに代表される東山文化を今も体感できるのは彼のおかげであることは間違いありません。
▼銀閣寺を出て水辺の遊歩道「哲学の道」は桜並木になっていて、春にはまともに歩けず、「哲学」とは遠く離れた道になります。
南禅寺方面に歩くと山側にはいくつもの寺社が現れます。
▼その中の一つ「法然院」を覗いてみます。
銀閣寺より短いものの参道は同じように竹などの木々が俗社会との境を造っています。
まだ春浅いこの時期は訪問者もまばらです。
▼山門をくぐると銀閣寺とは趣の異なる「白砂壇」が二つ並んでいました。
ラクガンのような感じがしないでもありません。
▼2つの砂壇の間を通り、心身を清めて浄域に入ることを意味しているそうです。
あいにく寺の御朱印は休止中でしたが、静かな京都を味わえました。