朝日山 弁天院の御朱印
左下に「水乃谷 弁天院」。
弁天院が建つこの地はかつては池があり弁天池、水の谷の池と呼ばれていた。
1893年、樋口一葉がこの地に雑貨店を開いた経験を代表作「たけくらべ」の題材にしている。
大音寺前にて珍らしき事は盲目按摩の二十ばかりなる娘、かなはぬ戀に不自由なる身を恨みて 水の谷の池 に入水したるを新らしい事とて傳へる位なもの
普段は無住のここで、本尊をいただけるとは期待していなかったが、尋ねてみると拍子抜けのようにあっさり記帳いただいた。
読めないが中央の朱印も押されているので、本尊の御朱印要望も多く、その用意ができているという事なのか?
5つの印が押されていた2013年。
ここ朝日弁天院でも2024年はスタンプが1つ減っている。
▼2024年、堂内で七福神と本尊を記帳いただいている様子。
普段は無住の寺院と思うので、管理側の僧侶か、弁天院を管理する近隣のボランティアの方かもしれない。
この日は普段は無住でも限定御朱印などの案内もあった。
▼極力余計なものは捨てるが、こんなはさみ紙を使用されると捨て難くなる。
▼壽永寺➡︎飛不動➡︎弁天院。どの寺院も日光街道(4号線)の東側にあり移動も数分。
▼弁天院の敷地は現在公園となっている。その公園の片隅にお堂が建つイメージ。
だが、江戸時代までは常陸下館藩主・水谷勝隆の下屋敷だった。下屋敷だから広大だ。
現在も23区内に残されている主な庭園のほとんどは大名の下屋敷。
水谷勝隆は天海の命により、上野不忍池に、竹生島(近江国・琵琶湖)の宝厳寺から辯才天を勧請し、辯天堂を造営。
その時、自身の江戸下屋敷の庭池にも屋敷神として辯才天祠を建立したと伝わるのが「弁天院」のはじまりとされている。
当時の弁天池は木橋が架けられた中之島もあり、8000㎡の広さがあったと案内板に記されていた。
乱暴に言えばタテヨコ80m×100mの池だ。
池がこの広大さだから下屋敷全体の広さは想像もつかない。
▼その8000㎡の池は、関東大震災後、100分の1くらいになった。
▼東側からの参道には橋が架かる。
弁天池には通常 橋が架かる。
今は地続きとなった上野不忍池の弁天堂を模したのだろうか?
しかし上野を模した大元の竹生島には橋は架けられていない。陸から遠いのだ。
日本各地無数にある弁天橋は上野不忍池から始まったのかもしれない。
水谷勝隆は屋敷内の辯才天を「姉弁天」とし、
▼西方にあたる不忍池を夕日、東方になる下屋敷を朝日弁財天と称したそうだ。
お堂は戦火で焼失。戦後に復興、増改築がなされて現在に至っている。
公園の一画にある小さなお堂だが、その歴史は濃く当時の姿に思いを馳せるのも、それほど難しくないかもしれない。
だが、朝日弁財天近辺を一葉が、おきゃんな美登里、信如たちが生きていた時間は今は遠すぎる。
公園で遊ぶ子供たちの嬌声だけは変わりがないようだが・・・。
かけあしで巡った2013年、11年後は少し歴史も知りながらの七福神めぐりだった。